陽のあたる場所 =9=




『忘れろ』
 何度も繰り返された言葉が今も耳に残る。
 泣いても自由になることはできなかった。
 抱きこまれた腕の中で、過ごすしかできない一夜。
 忘れられない強烈な行為。
 飽くことなく貪られた唇。
 身体中を探り、全てを暴くかのような指が一転して之路を煽る。
 与えられるのは苦痛だけではなく、それがまた之路を翻弄する。
 伸ばされた手が頬に触れ、涙を優しく拭う。
 柔らかな髪を撫でるその手が大切なものに触れるのを感じていた。
 ――そして強者の瞳が苦しげになることも。



 遠くで水の音がする。
 何かに叩きつけられるような、そんな威力のある水の音。
 ぼんやりとその音を聞きながら、之路は意識が浮上するのを感じていた。何かが自分に重なる感覚をやり過ごして、そっと瞳を開ける。
 白い天井に、白い壁。
 視界に入るものに、之路は何度か瞬きをする。しかし見えるものは変わらず、之路は体を起こそうとした。が、すぐにベッドへと逆戻りをする羽目になる。
「え……!?
 慌てて見れば、両手をそろえた形で頭上に手首が固定されている。之路を捕らえるその先はベッドヘッドの方へ繋がっていた。結び目が見えないのは、更に下の方にそれがあるからだろう。
 何度揺すろうと、幾重にも巻かれた拘束はびくともしない。それどころかその衝撃で肌が擦れ、その痛みに之路は顔を顰めた。おまけに体を動かしたことで、頭痛が発生している。
 之路は痛みを逃がすように長い息を吐き出した。浅い呼吸を繰り返し体の悲鳴が落ち着いてから、辺りを見回す。
 少し顔を起こせば鏡の埋め込まれたクローゼットと書斎机。ある程度の広さと必要最低限の物しか置かれておらず、左の方に窓が見える。ネオンが輝いていることから、夜であることしかわからない。
 いかにもホテルですと言わんばかりのつくりに、之路は舌を打った。こんなところ、来た覚えもなければ運ばれた覚えはない。
 首筋に感じた痛み。あれが焼けるような熱さだったのを今ごろ思い出す。そして、誰にそれをもたらされたのかも。
「……ああ、気がついたんだね」
 遠くからかけられた声に目だけを動かし、之路はそこにいる人物に冷ややかな視線を向けた。
 バスローブ姿で現れた村来はタオルを頭にかけている。どうやら先ほどの水音はシャワーだったらしい。あの夜、店で見せた笑みがそこに浮かんでいる。
 手にあるのは琥珀色の液体が注がれたグラスだ。カランと氷のぶつかる音がやたらと耳についた。
「へえ……そんな顔もできるんだ。気分は悪くない?」
 誰のせいだ、と言いたいの我慢した。相手の出方がわからない限り、自分の方からけしかけるのは得策じゃないと体で知っている。そして、それほど余裕がないことも。
 之路の態度をものともせずにこちらへと近づくと、ぎしりと音を立ててベッドに腰をかけた。その分スプリングが傾き、否応なく之路は彼の方へと体を傾ける羽目になる。
 グラスを持たない手が之路の頭上へと向かう。手首付近を撫でながら、彼は残念そうに呟いた。
「赤くなってるね。解こうとしたの?」
 次に之路の頬へと伸ばされ、之路は反射的に体を後ろへと退いた。だが、逃げるだけの自由はない。見知らぬ指が撫でる感触に、之路は嫌悪を感じた。
 今すぐにも大声を挙げたかった。しかし之路の持つプライドがそれをさせない。大げさな反応は男を喜ばすだけだと本能的に知っているからだ。その代わりに相手を睨みつけた。
 之路の反応が思うように得られなかったせいか、その手はすぐに離れていく。
「……ここ、どこだよ」
 すでに敬語を使おうなんて意志はなくなっていた。言葉遣いか、それとも之路が口を開いたことに対してか、村来が嬉しそうな顔をする。
「知ってどうするんだい? 彼に連絡をする?」
 今の之路にとってそれは禁句だ。あんなことをされても助けを求めている自分がいる。先ほどまで夢に現れた男が再び浮かび、之路は微かに自嘲した。
 何よりも村来の口から彼を匂わす言葉を聞きたくない。
「――彼って、誰のこと?」
 強気で返せば男の顔は歪んだ。それが男にとっても地雷だと気づいたときにはすでに遅い。
「――……っ」
 顎を痛みがあるほど掴まれ、思わず歯を食いしばる。息がかかるほど男の顔が近づけられた。その目にきつい眼差しの之路が映っている。自分自身を睨むように、之路は視線を反らさなかった。
 村来が陰湿な笑みを乗せる。
「君は……本当に煽るのが上手いな。つい本気で返したくなる。そうやって、あの男にも媚を売ったのか」
「だ、れが……っ」
「あの男だけじゃない。あのバーテンダーもそのうちの一人か? だから邪魔ばかりするんだろう?」
「……ぅ」
 返事を待たずに重ねられた唇に、之路は目を見開いた。首を振って逃れようとするが、固定されて思うように動かない。他人の熱が無防備な粘膜に触れていると思うと鳥肌が立つ。
 促すように舌で之路の歯列をなぞられるが、阻止するのに必死になる。執拗に繰り返される中、歯を食いしばって之路は何度も振り切ろうと続けた。
「……しぶといな」
 一向に応じない之路に村来が呟いた。感心したような口ぶりに之路は相変わらず睨むことで抵抗を続ける。ここで口を開けば今度こそ村来の思うままにされると思ったからだ。
 しかし、次の言葉でその姿勢が崩れた。
「あの時はもっと従順だったのにね」
「…………?」
 何を言い出したんだ。怪訝な顔をした之路に村来は愉悦を浮かべる。村来という人物を覚えてから初めて見たそれに、悪寒が走った。
「やっぱり覚えていないんだ? あんなに、君を可愛がってあげたのに」
 二年は長いな。
 男の言葉に之路は目を見開いた。他人によって穿り返された過去に、体が震える。
 舌なめずりをするかのような目つきは、あの時嫌というほど味わわされた。嫌がる之路を押さえつけ、いいように体を暴いた男たちの一人だというのか。
 だが、村来は三十代のはずだ。あの最悪な事態を起こした男と同年代とは思えない。
「あんた……」
「その調子じゃ覚えていてくれたのかな? それとも、体が覚えている?」
 すっと首筋を撫で上げられ、その触れ方に体を退いた。
 過去に関わった男だと意識すればするほど、肉体が無意識に反応する。すくみ上がる自分に活を入れようにも、恐怖が之路を支配してしまえば何もできない。
「君を見かけた時、思わず震えたね。君は、男にやられる立場が一番似あうよ」
 しばらく之路の顔を眺めていた男は、ふいに笑みを変えた。舐めまわすようなぶしつけな視線に、之路の体が総毛立つ。
「さあ、楽しもうか」





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