陽のあたる場所 =8=




別にいいだろう、それで」
 静かな声に、之路は顔を上げた。声の主は優雅にグラスを傾け、中身を煽る。そしてゆっくりと視線を之路へと向けた。
「わからないのなら、わからないままでいい。答えなんか、考えても出るもんじゃないんだ」
「………?」
 言葉の意味がわからず、之路は尚貴を見返した。その仕草に、ずいぶん人間臭くなったものだと尚貴は小さな笑みを浮かべた。
「他人の考えなんか読めやしないんだよ。それは推測の域から出ないし、答えにはならない。そいつの考えていることだと思っていても、所詮はただの思い込みだ」
 自分のことでさえ手間取るのが人間なのに、自分以外の他人をそれ以上に読み取ることは難しい。だから相手のことを考えるのだ。その人物が望んでいることを予想して、その結果を目で見るのである。
 例えば、と言って彼はカウンター越しにソウの腕を掴んだ。丁寧に反対の手で指を掬い取り、そのまま口元へと運ぶ。ギョッとしたのは之路だけではない。咄嗟に反応しきれなかったソウは顔を紅くする。
「尚貴さん!」
「人の前でやる意図がわかるか?」
 ソウの抗議を無視して、尚貴は之路へ視線を流した。普段なら尚貴と一緒にからかっているかもしれないが、今はそんな余裕もなく尚貴を見つめる。その強い瞳に、之路は躊躇いつつ口を開く。
「―――自慢?」
「まぁ、それもある。他は? ……ないのか?」
 問いかけられるが之路は答えられない。彼らの仲を知っている之路はあてられることが多いのだ。
 ソウが本気で機嫌を損ねる前に解放した尚貴は、之路の表情ににやりと笑った。
「牽制ということもある。こいつは俺のものだから手をだすな、と。おまえだから見せられる、というのもあるけどな」
 これだけで三種類の解答が出てくる。しかも、尚貴の解答がなければ之路には一種類しか浮かばなかったのである。
「おまえは秀才だけど、天才じゃないよ。世間は目で見えるものだけじゃないだろう」
 神妙な顔をする之路に尚貴は手を伸ばした。子供にするように、その髪をかき混ぜてやる。
「考えてもわからないのなら、それ以上は時間の無駄だ。答えを相手に請うしかない。その上で、もう一度考えればいい」
「……尚貴さん」
「それで答えが返ってこないのだとすれば、そいつはおまえにとって理解をする必要のない相手になる。それで終わりだ」
 そういうものなのだろうか。
 天野が答えを返してこなかったら、之路は彼を近づけなくなるのだろうか。そんな想像すらも戸惑いを大きくする。
 見上げてくる瞳の頼りなさに、尚貴は苦笑した。
 之路は相手の言葉を待つ段階で、自分がどれほど相手に奪われているかを自覚していないのだ。
「……おまえは今まで自分を省みることが少なかった。ここで、自分を知ってもいいんじゃないか?」
 之路がようやく成長を始めようとしている。そのきっかけが天野だというのは少し癪だと思ったのは尚貴の意地だった。




「送っていこうか?」
 開店まで一時間を切って、ようやく店員たちが顔を出し始めた。今日にかぎってソウが早かったのは当番だったかららしい。尚貴はそれに便乗した形だった。
 夏を完全に迎えたせいか、まだ空が明るい。
「いいよ。これから仕事だろ?」
「駅までだったら平気だよ」
「……過保護だよ、ソウさん」
「でも……」
 思案顔のソウに、之路は首を振って否定した。これ以上迷惑をかけられない。
 話を聞いてもらった今、来る前よりも前を向いているような気がする。もしかしたら誰かにアドバイスをして欲しかったのかもしれない。好きなようにやれ、と。
 扉まで見送りに来たソウは、尚貴へと一瞬視線を向ける。彼がこちらを向いていないのを確認してから、之路へと向き直った。
「ね、ユキ。人に訊くのって難しいよね」
「……ソウさん?」
「尚貴さんが言ってたこと、もう一度よく考えてごらん。相手の気持ちを考えるのは間違いじゃない。でもね、考えすぎて周りを見ないのも良い結果を生み出さないよ」
 じっと目を見つめる。彼は出会ったときから、之路をきちんと認識してくれていた。最初よりも瞳に宿る色は深い。
 目の前にある状況に捕らわれすぎて、遠くを見ようとはしなかった。目の前のものに捕らわれすぎていたのかもしれない。
 誰かの懐にいることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
 小さく頷いた之路は、自然に笑みを浮かべた。
「ありがとう……いろいろと」
 素直に零れた言葉に、自分でも驚いた。向こうも意表をつかれたらしく、表情に表れる。それが少し可笑しかった。
 之路は二言三言交わした後で、言葉少ないままに店を後にした。
 次からは制服でこの辺をうろつくんじゃないよ。そんな小言が嬉しいと思う自分に苦笑する。
 確かに自分はあるものしか見ていなかったかもしれない。
 わからないものはわからないままでいい。
 尚貴の言葉が一週間悩みつづけて疲れた之路の心を軽くした。このままの状態がいやならば何とかするしかないのだと、今ごろようやく気づく。
 結果がどうあろうと、自分を自由にするために。
 今すぐにどうこうする勇気はない。だが、近いうちに自分は行動するだろう。それしか、今の呪縛から逃れる術はないのだから。
 無意識に胸ポケットへと手を伸ばし、我に返った。そこにあるはずのものがない。
 足を止め慌てて鞄を探るが、一向に探し物は出てこない。慌てて記憶を遡る。男たちから逃げ出した時、シャツを押さえる手に感触はあった。あそこで落とせばどんな弊害が生じるか考えるだけで恐ろしい。ならば、着替えをした時だろうか。
 落としたことに気づかないほど、自分のことに思考が捕らわれていたことになる。本当に今の自分はおかしなことだらけだ。
 ソウが見つけて保管してくれるだろうが、明日また、なんて悠長なことは言っていられない。まだ学校はあるのである。
 取りに戻ろうと踵を返したその時、肩を引かれた。反射的に振り返った之路は、見覚えのある顔を見つけて後悔することになる。
「……村来さん」
「ああ、やっぱりユキ君だ」
 そのまま抱き寄せられそうになり、慌てて身を引く。
 ここは路上でソウの店ではない。そこまで気を使う必要はないと思ったのだ。
 不思議そうな顔で之路を見遣った彼はふいに、したり顔になる。
「なんだ、恥ずかしいのかい? 気にする必要はないよ。この辺は気にされないからね」
 とことん感覚がずれているらしい。男の言葉に脱力しかけた之路は次の瞬間息を呑む。彼の目がいつものなりを潜め、突き刺すように之路を捕らえていた。それに呼応するように、肩に置かれた手が更に力を込める。
「あのあと、彼とやったのかな?」
「な……っ」
 何の前触れもなく言われたことに、言葉が詰まる。言葉を理解するにつれて、顔が赤くなる。何を言い出すんだ、と返す前に更に追い詰められる。
「いや、それとも他の男とも? 誰にでもいい顔をするんだよな、君は。いい声を聞かせたんだろう?」
「……っ」
 顎を掴まれ、その痛みに顔を顰める。村来の言う内容を否定しようにも、そんな余裕さえ与えない。息がかかるまでに近づけられた顔は、何かを企んでいるのが明白だ。
 之路は、肩から男の手が離れたことに気がつかなかった。
「あんな屈辱を受けたのは初めてだよ」
 之路に向ける目とは裏腹に、淡々とした声が村来の口から出される。そのギャップに目を見開いた瞬間、項に衝撃を受けた。
 一気に目の前が真っ暗になる。
 膝が折れ、地面につく前に掬い上げられるころには、之路の意識は離れていた。




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