陽のあたる場所 =7=





 ソウに連れられて、之路は古めかしい扉を持つ店に到着した。その木材が、わざとそのような雰囲気を醸し出していることを、之路は知っている。
 たった数分歩いただけでたどり着いたことに、之路は少なからず驚いた。無意識の行動とはいえ、自分はこの場所に近づいていた。では、その先には誰がいたのだろう。
「まだオープン前だからね。皆が来るのには時間があるよ」
 ソウはあっさりと告げ、心配そうに見上げた之路に軽くウィンクする。さあ、と開かれた戸の向こうに足を入れた之路は、その明かりの強さに目を細めた。
 店でありながら個別空間をもたらす秘訣は明かりにある。開店前の今、ランプに見せかけた照明は点いておらず、その代わり存在感の薄い天井の灯りが煌々と輝いていた。隠れ家的な雰囲気を醸し出す夜とは異なり、酒瓶がアクセサリーの喫茶店さながらだ。
 限られたスペースを見回した之路は、カウンターに人影を見つけ立ち止まった。蒼よりも背中の逞しい人物がこちらに背を向けて座っている。
 心臓が、煩い。
「尚貴さん」
 固まってしまった之路の後ろから、ソウが声をかけた。それに合わせて振り向いた彼を確かめ、之路は密かに肩の力を抜いた。
 尚貴と呼ばれた彼を之路も知っている。尚貴もまた、之路が足を向けて寝ることのできない人物なのだ。
 もっとも之路が知ることなど、高が知れている。彼がソウの住む部屋の家主であること、そしてそれがすでに片手を超えるほどだということだ。職業など聞いたことはないが、この時間に店へ来れるのなら、時間に縛られた職種ではないのかもしれない。
「……拾ってきたのか」
 数瞬無言で之路を見たあとの第一声である。
「人を猫か犬のように言わないの。今救急箱を出してくるから、ちょっと見てて」
 返事代わりの長い息とともに煙を吐き出すと、咥えていた煙草を指に挟み灰皿へと移す。火を点けたばかりだったのか、まだ長い吸いかけのそれはそのまま火種を消された。何事か呟いた後、その指で之路を傍へと呼ぶ。
「ついでにシャツも持ってきてやれ」
「わかってます」
 まるで手間のかかる子供になった気分だ。この二人の間にいると、いつでもそんな感想を持ってしまう。
 躊躇う之路の背を押して尚貴の傍に追いやると、ソウは従業員用の部屋へと姿を消した。それを視線で追っていると、名前を呼ばれる。それでも動きづらかったのだが、目で示され仕方なく歩み寄った。
 改めて近くで見ることで、之路のひどい服装に気づいたのだろう。眉を顰め、視線を険しくする。目が赤いのだけは気づかれたくなくて、之路は俯いた。
「触るぞ」
 彼の手が宣言とともに伸ばされる。直接触れる瞬前、之路の体が退いた。思い出したように、体が震え始める。
「ご、めん……」
「謝らなくていい。続けても大丈夫か?」
 自分に伸ばされる手が恐い。尚貴の手だと頭がわかっていても、体が勝手に行動を判断する。渦巻く感情を止めることができなくて歯がゆい。
 見なければ平気だろうか。ぎゅっと硬く目を瞑った之路に彼はあやすような声をかける。
「どこか、痛いところはあるか?」
「……ない」
「怪我は?」
 これには首を振って答えた。事実、壁にぶつけられた時の痛みはあるが、手当てを受けるほどではない。むしろ、這いずり回る感触が気持ち悪い。男たちの視線を思い出すだけで、吐気がする。
 そっと視界を開けば、真剣に見つめてくる瞳とぶつかった。彼も過去を知っている。その時に言われたことを、之路は思い出した。
何度も深呼吸を繰り返して、之路は小さく告げる。
「……されて、ない、から」
 何を、とは聞かれなかった。ただ本当だな、と問われて素直に頷く。途端に、彼が肩の力を抜いたのがわかった。尚貴もまた、緊張していたのだろう。
「蒼、服を」
 いつの間に戻ってきていたのか。振り返ると、白いシャツを持ったソウが立っていた。尚貴が判断するのを之路の後ろで待っていたのだろう。ソウもまた、安堵の表情を浮かべている。
 持っていたシャツを之路に手渡すと、彼はそのままカウンターへと入った。尚貴はというと、何事もなかったようにソウへ酒を指示している。どちらも、之路が気にしないようにという考慮をしたからだ。
 心配されている。そして彼らなら大丈夫なのだと、之路は身をもって感じた。
 迷った末に上半身に纏っているものを全て脱ぎ、渡されたシャツに袖を通した。ソウのだろうそれは之路には若干大きい。袖を折るほどはないが、明らかに借り物だ。
 脱いだものを一纏めにしていると、ソウが声をかけてきた。
「そのシャツは捨てちゃう?」
「……う、ん。どうせ、着れないし」
 ボタンだけならともかく、布自体が破けている。これを補強するには根気と技術が必要だし、そんなものを之路は持ち合わせていない。差し出された手にシャツを託し、尚貴の隣りへ腰掛けた。
 しばらくして、この場には不似合いなマグカップが置かれる。中には牛乳と思しき液体が湯気を立てていた。
「とりあえず、落ち着くまではそれを飲んで。体、冷たくなってたから」
 季節外れだけどね。苦笑したソウとカップを見比べ、之路はそれを両手で包んだ。確かに時期を逃している飲み物だが、その掌から伝わる熱が之路の強張った全てを溶かしていく。
 之路が自分の手元に視線を送っている間に、彼らは他愛のない会話を続けていた。それに織り込まれるお互いの尊重が、彼らの仲を物語っている。
 そういえば彼らを拠所にしたのはこれで二回目だ。
 親から渡された生活費を飲み代にして、時間を過ごす生活はもう続いて久しい。それが尚貴とソウに出会ってここで過ごすようになり、天野と出会った。ソウとの会話に割り込んできた彼は、何度見ても普通のサラリーマンには思えない。二度目に顔を合わせたとき、質問した之路に彼は笑って言ったのだ。出会うたびに答えるよ、と。
 会った回数は約一週間分。日によっては十分という短い時間の中で知った彼は、ごく些細な部分だけだった。名前と趣味と職種と。あとは駆け引きのような会話が成立する。
 当り障りのない話しかしていないはずなのに、流れる空気は白々しくない。知識が豊富な天野は、退屈という二文字を之路に浮かばせなかった。
 いつの間にか興味を持っていたのだ。話をしてみたいと思うほどに。
 そして、頼るほどに。
 村来に絡まれたあの時、之路は近くにいるソウよりも天野を思い浮かべた。助けて欲しいとぼやける意識下で手を伸ばして――傷ついた。
 之路の意思を無視した、強さを知らしめるための暴力は過去に体験していた。その時植え付けられた感触は今でも之路を苛む。
 一緒だ、と思う。それなのに、納得したがらない自分がいるのだ。彼は、違うと。
 ずっと考えて、とうとう答えが出なかった。
 あの夜はなんだったのだろう。
 裏切られた、と思う自分がわからない。
 ソウさん、と呟くように呼んだ。小さなそれに会話が止まり、二人の視線が向けられた。返事がないのは、之路の思考を邪魔しないためだろう。
 乾いた唇を舐め、意識して呼吸を数度繰り返す。
「……わかんないんだ。何か……何を思ってるんだろうって……」
 主語もない。述語だけの言葉にソウも戸惑っていることだろう。だがぐるぐると回る感情が遮って、これしか音にできなかった。
「おかしいんだ……」
 天野との間にできた空気が心地好かった。
 抱きしめる腕が優しかったのを、体が覚えている。
 あの朝の温もりが離れていかない。
 彼にされたのは、忌まわしい過去の男たちと同じ行為。それなのにされた行為よりも、自分を包む腕と彼の囁く一つの言葉が、こんなにも之路を縛り付ける。
 天野がわからない。そして、自分自身の心も。




  novel  




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送