陽のあたる場所 =2=





 天野義孝と名乗った男は宣言通り之路に酒を奢った。
 思惑通り足を運んでしまった之路が不機嫌そうな顔をしていても態度は変わらない。他愛のない会話が続くと彼はまた明日、と言い残して去っていく。それは約束とも言い切れない言葉なのに、之路を似た時刻に店へと通わせた。
 彼に言われたからじゃない。どうせ毎日行く場所なんだから。
 誰に対する言い訳なのかも定かではないまま、男と顔を合わせる時間は積み重なっていいく。
 この日、店に着いたのはまだ八時にもならない時間だった。いつものカウンターに座ると、他の客の前で待機していたソウがこちらに気づき寄ってくる。
「いらっしゃいませ」
「……キールロワイヤル」
 頷いて準備を始めるソウの横顔が笑ってるのが目に入り、之路はむっとした。カウンターに肘をつき、横を向くその態度は年相応のものだ。やがて置かれたグラスに視線を向けると、やはりからかいの表情がある。
「……むかつく」
「何? なんかあった?」
 言いたい事がわかっているだろうに、ソウはとぼけた返事をしてくる。別に、と呟いてそっぽを向けば、ソウが口を開いた。
「あれま、本当に機嫌悪いんだ」
「悪いよ。ソウさんのせいで」
「それは失礼。……何かあった?」
 他の客には向けない優しい声に、之路は表情を変える。この声に弱いと自覚しているせいで、之路のほうこそ分が悪い。
「珍しく親が家に来るらしいから逃げ出してきた」
 荷物を取りに来るという連絡が留守電にあり、さっさと外出を決め込んだのだ。親の仕事を放棄しながら世間一般の親でいるらしい。その面倒さに家を空けるのがこのごろのパターンだ。
 両親との会話はいつからかなくて当たり前。親らしいことをしない代わりに資金面での援助をする。子供は必要最低限の呼び出し以外はされないようにする。これが、裏公約となって久しい。
「ご両親も大変だね」
 同情したのはどちらにだろう。どっちともつかない言葉は無視することにする。
「好きでやってんだから構わないだろ。今更過保護ぶっても意味ないのに」
 来年には受験戦争を向かえる年でも、内部推薦で終える予定の之路にとっては進路相談も何もあったもんじゃない。おまけに家庭教師だのと言いそうな雰囲気に辟易していた。
 之路が両親を好いていないのはソウも知っていることだ。だれかれ構わず話せることではないし、ソウだからこそ之路も素直に口にすることができる。
 返事を求められてるわけでもない。ソウは黙って注文のそれを之路の前に置いた。
 ソウが穏やかな顔で見ていることが想像できる。之路は視線を受けにくくて、誤魔化すようにグラスを一息に呷った。炭酸とアルコールの勢いに、喉が熱くなる。半分ほど飲んでしまえば、胃を通り越して血液まで熱を発生させたかのように感じた。
「無茶な飲み方はしないの。酒が勿体無いだろ」
 冗談めかしたソウは、伸ばした手で之路の頭を軽く撫でた。子供に対する態度だとわかって反発するが、一向にソウが気にすることは滅多にない。
 他人の手を拒む之路も、ソウだけは例外だ。このときだけはいつも、自分がどれだけソウという人物を受け入れてるかを自覚する。わざと兄貴ぶった態度を取るのに慣れたせいかもしれない。
 あくまでも笑みを絶やさない相手に、之路は力を抜いた。
 気取らなくていい場所がある。それを教えてくれた彼には警戒心も自然に薄くなってしまう。
 拗ねた態度にソウは笑いを隠さなかった。だが、間を置かずにそれを引っ込め、之路の背後に対して頭を下げる。不自然なそれに、之路は顔を上げた。
 反射的に天野が現れたのかと思った。それと同時に馴れ馴れしく肩に手が置かれて、之路は眉を顰める。
「久しぶりだね、ユキ君。今日こそはと思い立って正解だったな」
 三十代半ばの、いわゆる世間一般的な男がそこにいた。
 着ているスーツはありふれたもので、ネクタイだけがこれ見よがしに名高いブランドものだ。
 にやけた顔は、すでに酒が入っているからなのかそれとも素なのか。背後には、場違いな格好をした数人の男女が好奇の目を隠さず群れている。
 なんだ、違うのか。一瞬浮かんだ感情に之路は慌てた。まるで天野を待ってたみたいで、慌てる。
「頼んであったものを受け取ってくれたかな?」
 前触れもなく始まった会話に之路は首を傾げる。
 早速回転し始めた頭は、例の村来という見知らぬ名前をはじき出した。再び視線をやるが、やはり記憶にない。岡本と一緒にきたとき、ソウと話しているのを遠くから見ていたのだろうか。
 はぁ、と距離を置きつつ答えると助け舟が入った。
「ご友人方が、後ろでお待ちかねですよ」
 之路が不快感を表す前に、と考えたのだろう。ソウの声は表現が礼儀正しいものの些か硬い。どうやら、彼もこの男を好ましく思っていないらしい。それなら、先日の話も意図的だったことがうかがえる。
 ソウの思惑も之路の感情もまったく解さず、片手を振りながら言った。
「ああ、適当な席に案内してやってくれるか」
 自分がさも支配者であるかのように振舞う男は、之路に触れたまま隣へと腰を下ろした。案内係がいるにもかかわらず、この男は彼らを無視したに違いない。そのくせソウに役以外の仕事を向ける傲慢さに之路は気分が悪くなる。
 客相手に諍いを起こしてはならない。それはどの店でも同じことだろう。ソウは無表情で頷くと、之路に視線を向けた後案内をするためにカウンターの中から出た。それを追う之路の顎を、男の指が無遠慮に捕らえた。
「君が見るのはこっち。わざわざ君に会うためにこの店にまで来たんだからね。この間は岡本さんが邪魔してろくに話せなかったし。あいつ抜きで一回話してみたいと思っていたんだ」
 餓えた獣のようにぎらついた目が、舐めまわすように之路に向けられる。
 どうやら岡本を出し抜くという意図でソウに酒を言いつけていったらしい。
 考えてみれば、岡本も之路がジンを好まないことを知っている。一緒に来ているときなら一言くらい忠告しただろうから、単独で来ていたのだろう。それともソウのようにわざと止めなかったのだろうか。
 ふざけんな、と之路は心の中で悪態をついた。いい気になってそのまま顔を近づけられてはたまらない。男に言い寄られる趣味はないし、何より触られることに不快感が募る。
「えーと、村来さん? 顎痛いんだけど離してくれない?」
 とりあえずはこの指から逃げることが先決だ。苦しげな表情を作り、之路を捕らえる指に手を重ねてみせる。すると顔が自由になった代償にその指が掴まれる。
「嬉しいね、名前を覚えていてくれるなんて。てっきり岡本さんのせいで気付かれていないと思っていたよ」
 覚えてませんよ、今現在も。そう言いたいのを之路は堪えた。指に触れたのは失敗だったかもしれない。アルコールのせいだろう、熱を持った掌が粘着質のように感じられる。
 見知らぬ相手との接触は不快感をいや増す結果になる。記憶の片隅で蠢いたものを感じ、之路はそれを堪えることに意識を集中させた。
 之路の曖昧に流した反応を、村来はよく取ったらしい。之路の手を捕らえたままカウンターの上に止めおくと、声高に話し始めた。まだ戻らぬソウ以外のバーテンダーに酒を頼み、再び之路を覗き込むように会話を続ける。
 やがて置かれたのは二つのグラスだった。村来の前にはお約束のようにジントニックが、そしてなぜか之路の前にオレンジ色のカクテルが置かれる。同時に前のグラスを下げられてしまい、之路は反応に困った。
「あの……」
「オレンジブロッサムと言うんだ。甘いから君にも飲みやすいと思うよ。オレンジ、嫌いじゃないだろう?」
 ジンではないことにほっとしたが、その決め付けが何よりも腹立たしい。苛立ちを露わにしてもよいが、それで店に迷惑がかかるのはごめんだ。
 もとより奢られる気はない之路としては、このグラスに手を伸ばすのはいただけない。だが、飲んで開放されるのであれば、道は一つしかない。
 気障さを気取りたい男は、軽くグラスの音を立てた。金を置いて帰れば奢られたことにはなるまい。そう覚悟して、グラスに口をつけた。
 オレンジの酸味が口の中に広がる。歯の浮く甘さをやり過ごしながら男を一瞥した。岡本と知り合いというが、デザイナーのようには見られない。飲んでるうちに知り合ったという感じだろう。だとすれば、ソウが見たのもたまたまの現場だったと考えられる。
 どこにでもいる勘違い男。それが之路の下した評価だ。
 一方之路を捉えたつもりで気分が良いのか、村来は店の空気をぶち壊すような声で話し出す。相変わらず重ねられている手が、時折之路の気を引くかのように蠢いていた。
 しばらくは我慢していたものの、男の体温は一向に離れていかない。徐々に之路は背筋を伝い落ちる汗に気がついた。
 気分が悪い。
 この感じは前にも体験したことがある。そう、身体に合わないアルコールを飲まされた時と同じだ。
 どくどくという血の通う音が耳元ではっきりと聞こえる。やばい、と思ったときにはすでに遅かったようだ。視界が霞んでくる。
 空いた手で頭を支え、之路は喘いだ。
「……ユキ君? 具合でも悪いのか?」
 見てわかんないのか。そんな突っ込みをする余裕もなく、之路は頭痛と戦う。すでに表情を繕う気力もない。
 ふいに、肩に腕が回された。そのまま抱き寄せようとするその力に之路は辛うじて抵抗する。耳元に村来の息を感じて背筋が震えた。
「どうしたんだい? 無理して我慢してないで凭れたほうが楽だと思うよ」
 目を開けているのさえやっとなのに、これ以上煩わされたくない。全てにおいて粘着質の男をどうやったら振りほどけるのか。
 救いを求めて前方を見るが、見慣れないバーテンダーはよそを向いている。舌打ちをすると、頼れる相手を求めて視線を横へと流した。その間に之路の身体は引き寄せられ、腕の中に落ちてしまう。
「どうしようか。どこか他の場所へ移動するかい?」
 下心のある言葉とその媚びるような声音が嫌悪感を煽る。
 冗談じゃない。いつものキレもなく、弱々しく横に振るしかない自分に泣きたくなる。
 こんな男に身を任せたくない。任せるなら、もっと違う男がいい。
 頭に浮かぶ男は、今どこで何をしているのか。
 力の入らない之路をこれ幸いと村来は力を込めて抱き寄せた。スツールを静かに降り、之路を支えて歩き出す。霞んだ視界の端で、ソウが慌てるのが見えた。
「……なんだ、君は」
 不機嫌なそれが村来の声だと気がつくまでに時間がかかった。立ち止まり、目の前にある壁に向かって何かを話し掛けている。
「あなたの抱えている彼は、私の連れなんですよ」
 聞き覚えのあるそれに、之路は神経の全てを集中させた。必死の努力で顔を上げれば、救いを求めた男が立ち塞がっている。相変わらずクールな表情だが、その目は更に冷たい何かを宿らせていた。
 助けて欲しいという願いを視線に込めれば、彼は小さく頷いた。村来へ向き直る。
「それは、私が連れて行きます」
「遅れてきて、それはないだろう。ああ、あんたが最近ユキ君に付きまとっているという相手か。彼は、私が責任持って……」
「では、彼に選ばせましょうか?」
 村来に最後まで言わすことなく、天野は手を差し伸べた。
 選ぶまでもない。彼がいい。
 視界に入ってきた腕に之路は無言で指を絡める。次の瞬間体ごと奪われ、気がついたら目の前に品の良いスーツがあった。普段ないほど他人に接近しているという自覚はトワレがもたらす。凭れかかるには程よい筋肉質まで感じられるその身体は、之路の体重を受けてもよろけることもない。
 一息置いて、体が宙に浮く。抱き上げられたのだと実感をすると同時に、之路はほっと安堵の息を吐いた。
「では失礼」
 呆然と成り行きをも見守っていたギャラリーの視線など気にすることもなく、天野は出口へと向かう。付けておいてくれ、とは誰に向けての言葉だったのか。ありがとうございました、という店員の声を遠くで聞いた気がする。すべては朦朧とした意識の中の出来事となっていた。





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