陽のあたる場所 =1=





 薄暗い灯りの下、多くの客が憩いを求めてやってくる。近づいて初めてはっきりと相手の顔を知ることができるこの店は、無駄なく溶け込める人間が自然に集まるのだ。様々な会話が成り立つ異空間のようなものだ。
 夜の帳が完全に降りた今、誰もが誰かと一緒にいる。それを横目で見ながら今夜も慣れた裏道を使い、羽丘之路は目的地へと向かっていた。
 この場所は顔が通れば、知り合いもできる。一人で来る他の客が之路を構うようになった。逆に、過干渉されない場所にもなる。羽目を外し、そして落ち着くことを望んだ之路は自分の居場所を見出した。
 之路の日々は夜が本番である。昼の職業はと訊かれたら、高校生と答える彼だが、その生活は世間一般から外れていた。
 両親はそれぞれ自宅からほんの一時間強にあるオフィスを持っていた。いわゆる、社長同士の夫婦というわけだ。そしてそれらの近辺に寝泊り用の部屋が確保されている。
 各自で会社を持つ身としては、子供には構ってられないというところが本音だろう。仕事が好きな彼らは、プライベートと仕事を区別しない。もちろん帰っても誰もいない。家が存続しつづけるのも、之路の学校に近いからという理由でしかないだろう。
 放任主義という便利な言葉のもとで育った之路は、時間と場所と金を十分なほど与えられていた。好き勝手に時を過ごすのはすでに習慣のようなものだ。
 親の金だから、という躊躇いはすでにない。余るだけの額を与える彼らも、気にはしないだろう。

 時はすでに午後十時を過ぎている。早ければ二次会という時間帯、この店は世間の喧騒から孤立していた。
 入り口から奥に入ったところにあるカウンターは、いつからか之路の席となっている。之路が宣言したのではないし、ソウが予約席とするわけでもない。ソウと話すために同じ場所に座りつづけた結果、常連がそう考えているのだという。
 うるさくない音楽が耳に心地好いし、甲高く話す輩もいない。未成年は帰る時間という風潮のないカウンターで、之路はジントニックを前にしていた。顔なじみのバーテンダーから差し出された酒に手を伸ばそうとはせず、顔を顰める。
「……何これ」
「この間話したお客さん覚えてる? 次にユキが来たら出してあげてってさ。もう料金もらい済み」
「誰? 酒の指定つき?」
「村来さんって人。デザイナーの岡本さんと一緒に来た人だよ。同じものをあの顔の可愛い子にあげてくれってね」
「………」
 覚えてないよ、そんな人。グラスさえ触ろうとしない之路に、ソウと呼ばれるバーテンダーは肩を竦める。
「だろうと思った。ま、ジンが嫌いなことは言わなかったんだけどさ」
「わかってんなら違うので出してよ。一杯分、勿体無いじゃん」
 上目遣いで見ると、軽く笑って彼はグラスを下げた。そして待たすことなくお馴染みのものを出してくる。サンキュと呟いてから、之路は口をつけた。
 昨日までテストだったため一週間ほど自粛していたのだが、その間に之路を知る誰かが言い残したらしい。
 奢ったり奢られたり。
 それは顔を広げたり、あるいは相手を求めたりするために存在するやり取りだ。之路もたまに相伴になることもある。だが、あくまでも奢る本人が側にいるときのみだ。
 今回のは顔を知っているもの同士が間に入ったからこそ形が成り立ったにすぎない。
「次から受けるの止めてよ。知らないやつからもらいたくないし」
「ずいぶんつれない言葉だな」
 誰かが背後から会話に交じってきた。ソウがいらっしゃいませと頭を下げるのを横目に、之路はゆっくりと背後に視線を向ける。
 常連だという自覚のある之路でも、見覚えのない顔がそこにあった。
 長身、痩躯、そして美貌。目の前に立つのは、嫌味な三段階を揃えたまだ二十代だろう若い男だった。だがそのスーツは見るからに高額なのが伺えるし、手入れもきちんとされている。なにより着こなしに無駄がない。着られてるという感が見受けられず、軟派な雰囲気も持ち合わせていないのだ。
 他人に興味を覚えない之路でさえ目を奪われるほどのもので、どんな女でも放って置かないだろうことは予想できる。
 初顔だなと心中で呟いて、舐めるようにシャンディガフを傾ける。少なくとも、之路の記憶にはない。
 之路が見守る中何も言わずに隣りのスツールへ腰をかけると、いつものをとソウへ指示する。返事をするソウの態度も一変し、之路に視線をくれてから固定位置へと戻った。
 どうやら常連の枠内らしい。之路と時間帯の合わない人間だろうか。
 二人のやり取りを考えていた之路は、隣りに意識を呼び戻された。
「話したことのある相手も、知らないやつになるのか?」
「……人の話聞いてたわけ?」
「たまたま聞こえたんだよ」
 之路の不機嫌な声を笑ってかわし、男はソウの手元を見つめる。きっちり計ったように注がれるシングル。ウィスキーに興味のない之路には見覚えのない銘柄だ。
「どうぞ」
 丁寧に渡したソウはそれっきり距離を置いた。一人で過ごす客の相手をすることも仕事だが、他の相手がいる前に立っていては邪魔だからだ。まずい相手ならソウは之路から離れない。つまりソウはこの男を警戒してはいないということになる。
 立つ位置を変えた彼を目で追っていた之路は、視界の端で男がグラスを持ち上げるのがわかった。視線を流すと、気づいた彼は口につける前だったグラスを少し掲げてみせる。
 気障な仕草が、むかつくほど似合う男。
 しばらく会話もなくお互いの酒を並んで飲んでいた。
「――で、どんな男だったのかな?」
 何気ない世間話もないまま発せられた言葉に、之路は傾けていたグラスを止める。横目で見ると、彼とまともに目が合った。男に見つめられていることを改めて意識した心臓がどくりと音をたてる。
「さあ? なんせ、俺の顔は広いからね」
 何事もなかったようなポーカーフェイスで肩を竦めた。
 これはあながち誇張ではない。この店に顔を出し始めてすでに一年と少し。入れ替わりがあるものの、それなりの顔見知りがいるのである。その中の一人が連れかもしれないし、通い始めの相手かもしれない。とりあえず之路が覚えるつもりのなかった人物であることは間違いない。
「興味ないのか?」
「うーん、まあ気にはなるよ。でも受け取らない。顔のわからない相手からの贈り物なんて恐いだけじゃん? 面と向かってこそ贈る甲斐もあると思うけど」
「……なるほど。では、私から贈った場合はどうなるのかな?」
 指先でいじっていたグラスが止まる。之路が意図を探るような瞳を向ければ、男は怯むことなく返してきた。
 まるで受けることが当然のような強いそれに、之路は軽い違和感と反発を覚えた。たっぷりとした時間が二人の間に流れる。
「あんたは初対面で贈るタイプには見えないよ。もし贈るとすれば、何かがあるときのように思えるね」
 ゆっくりはっきりと之路は告げた。視線は反らさないままに。
 落ちる沈黙が緊張を含んだものに思えたのは之路だけかもしれない。だが、知らん顔で座りなおせば、隣りから小さな笑い声が聞こえてきた。
「なかなか手強いな」
 どう取ればいいのだろう。迷った之路の取った行動は手元に視線を飛ばすことだった。
 男が企むような笑みを浮かべたのを、之路は知らない。
「では、こうしないか? 明日の同じ時間、私はここにくるよ。その時改めて奢らせてもらうとしよう」
「……はぁ?」
「そうすれば初対面じゃなくなるだろう?」
 何を言い出すんだろう。呆れている間に、彼は立ち上がった。胸ポケットから財布を取り出すと、飲み終わったグラスを重石代わりにして置く。
「ソウ、君は初対面じゃないから飲むだろう?」
「ありがたくいただきます」
 何時から聞いていたのか、気付けば側にソウが立っていた。男に対して丁寧に頭を下げる。鷹揚に頷くと、男は之路にまた明日という言葉を残して背を向けた。
「ちょ……来るとは言ってないだろっ」
 慌てて立ち上がれば、男は振り返った。自信たっぷりに告げられる。
「君は来るよ。私の正体を知らなければ気持ちが悪いだろうからね」
 男の残した言葉は、之路の思考を占めるのに十分なものだった。翌日、テスト休みでのんびりと寝坊をした之路は起き抜けに言葉を思い出し舌打ちをする羽目になったのである。


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