陽のあたる場所 =epilogue=





「……タバコ?」
 唇が離れた瞬間、之路は小さく呟いた。疑問形なのは、これまで一度も天野が吸っているところを見たことがないからだ。そのままの距離で天野が苦笑する。
「臭うか?」
「そうじゃなくて、苦い」
「それは失礼」
 言葉を裏切る口調が憎らしい。
 理由らしい理由もないままの宥めるキスの後、之路が落ち着いたのを見取った天野は一度部屋を出て行った。
 盆を持って戻ってきた天野はそれをベッドヘッドに置くと、おもむろに之路の横へ腰掛ける。
 之路の額へ手を当てて熱がないな、と呟くその表情はどこか安堵の色を浮かべていた。尚貴辺りが見たら食傷するだろう笑みが照れくさい。
 天野の指は離れていかず、そのまま之路の柔らかな髪を梳き始める。男らしいのに慎重に動く天野の指が心地好くて、之路は猫のように傍にある温もりへ擦り寄った。
「躯は大丈夫か?」
 うっとりと与えられる感覚に身を委ねていたため、天野の言葉が上手く頭で解析されなかった。問いかける視線で見上げると、困ったような目とぶつかる。もう一度繰り返され、之路は赤い顔をさらす羽目になった。
 瞬時に浮かぶのは昨日の自分だ。顔が見られなくて俯くと、頭上で笑う気配がある。それが彼の余裕の表れに思えて面白くない。腹いせを兼ねて目の前の足を感情的に叩いた。
「こら」
 上半身を抱きかかえられ、之路は天野の胸に背を預ける形になる。続けて抗ってみようかと企めば先手を打たれてきっちりと抱き寄せられた。そのまま器用に天野は背後に置いたグラスを手にとる。
 口元に運ばれたコップの中身が揺れて液体が之路の唇を濡らした。大人しく口を開きそれを受け入れる。自覚以上に喉が水分を欲していたらしく、体中に広がる感覚に之路はほっと息を吐いた。口の中に広がるレモンの味が苛立っていた之路の感情を少しだけ和らげる。
「落ち着いたようだな」
 いつもと変わらぬ静かな声音に之路は素直に頷くと、天野が小さく笑った。嫌味じゃないまでも気になるそれに、思わず反応する。
「……何?」
「いや、別に。それよりも眠くないのか?」
「眠いというか……」
 だるいというか。
 天野の姿がないだけであっさり眠気など吹き飛んでしまった。覚醒してからは身体の重さが気になって仕方がない。
 もぞもぞと身動ぎし、自分の居心地のいい姿勢を探し出す。天野に負担がかかるだろうが、これくらいは譲歩してもらいたい。
 ベッドに腰をかけた状態の天野に膝枕をしてもらう形で落ち着いた之路は、ほっと一息ついた。すると天野が力を抜くよう髪を撫でて促す。
 ――このまま時が止まってしまえばいい。
 誰かを想い、その熱を感じている。二十年足らずの人生だけれど、今が一番幸せだと思う。
 何も知らないでこの場所に来れたのならば良かったのに。
 浮かびかけた映像に之路は拳を作って耐えた。見たくないもの、感じたくないものが身体の中に蔓延っている。
 爪の跡が掌につくのがわかる。それでも之路が力を込めつづけていると、大きな掌が手に被さった。目を上げると、彼が窘める顔で之路を見下ろしている。
 無言のまま手が開かされるのを見つめ、之路は覚悟を決めた。
「昨日のことだけど……」
 之路が言い出すとは思わなかったのだろう。ぴたりと、天野の動きが止まる。確かめる視線を向けられて、之路は顔を背けた。
『やっぱり覚えていないんだ? あんなに、君を可愛がってあげたのに』
『二年間は長いね』
 薄ら笑いとともに浮かんだ声が気味悪い。忘れたい事ほど之路を捕らえ続けている。
 忘れたい出来事の中でも最悪の事実は、まだ完全に過去になってはいないのだということをこんな時思い知らされる。
 いつか、話すときがくるのだろうか。
「……いいんだな?」
 間を置いてからの言葉に之路はゆっくりと、しかし確実に頷いた。すると強張る体を宥めるように天野の手が動き出す。
「蒼が覚えている限りでは常連の知り合いということだ。初日におまえを振り向かそうとして素気なくあしらわれてたと聞いたが」
「……あんたと最初に会ったあの日、ソウさんに酒を断ってたの覚えてる? あれ、あいつからだったらしくて。でも、全然興味もなかったから覚えてもなかったし」
 それがきっかけで天野と話すことになったのだからなんだか皮肉だ。
 自分には後ろめたいことがないのだと、ぎゅっと抱きついた之路を天野はしっかりと受け止める。
「わかってる。もともと言われる前から蒼は距離を置かせようとしたんだ。おまえに向ける視線が気に食わないと言っていたな。そして蒼が離れた隙にやられた。自分以外におまえ用の酒を作られたからな」
「それって……」
「あのときカウンターにいた男は村来から頼まれてお前の苦手なジンを混ぜていたらしい。大量にな。問い詰めたら白状したよ」
「………」
「だがそれも俺に邪魔をされた。自分の目論見がすべてうまく行かない。焦った村来は最終手段にでた」
 つまり、之路の身を捕らえてしまうことを実行した。人目も気にせず之路を自分のものとするために――。
 言葉の先を想像してしまい、之路は無意識に自分の体を抱きしめた。男の言葉や息遣いを思い出してしまい、身体が震え出す。
 之路の意識を少しでも和らげるようにと、天野の手が之路の背へとまわった。
「おまえがタクシーで連れ去られるところをソウが目撃した。あとは、わかるだろう」
 もう、すべてが終わったことなのだと教え込もうとするその温もりに、之路はそっと目を閉じた。
 すべてが偶然と言い切るのは難しい。そもそも天野の傍にいられることが奇跡だと思う。タイミングが遅ければ、之路は今こうして寄りかかることもできなかっただろう。
 ――手垢のついた身体を誰が欲しがるというのか。
 過去をないことにはできない。だからこそ、彼に知られるのが恐い。
「悪かったな」
 硬い声に、之路は顔を上げた。之路を真剣に見つめてくる目とぶつかる。
「すぐに駆けつけてやりたかったんだが……」
 早く行動をすればその分之路が恐怖を感じる時間も短かった。之路を苦しめた一端が自分にもあると天野には思えてしまうのだろうか。
 眉間にしわを寄せる男を之路は呆然と見つめた。次に全身で理不尽な感情を覚える。
助けてくれたのは他でもない天野なのに。
「……どうして……」
 辛そうな天野に之路は頭を振った。迷子になった子供のように、ぎゅっと天野にしがみつく。
 昼の時点で二人に話してぼんやりと気がついた自分の意思は、まだ行動に移せるような固さがなかった。皮肉なことに、それを手伝ったのは村来で。
「そりゃ、もっと早く助けてほしかったよ? でも……でも……」
 どうしてこんな目に、と何度も思った。過去のように諦めかけたのも事実で。
それでも之路は陵辱者に抵抗し続けた。天野のためとは言わない。それはあくまでも自分のためだ。
「あんたに来てもらえただけで……もう、いいんだ」
 もし身体を渡してしまっていたら、之路は二度と天野の前に立とうとは考えなかっただろう。そして自分の初めての想いを抱えながら、過去以上に苦しんでいるだろうことも予想できた。
 今こうして天野の腕の中にいることが、之路に対する褒美だと思えてくる。
 之路の言葉をどう解釈しているのか、天野が反応するまでに時間がかかった。不安を覚えながら黙って天野を見つめる。
 ふいに天野が動いた。両脇の下へ手を差し込むと、強引に之路の上半身を抱き上げる。咄嗟のことに頭がついていかずに為すがままの之路へ唇を近づけると、その熱い口腔を貪った。
 之路が状況理解をし始めたのは天野の舌に自分のそれを絡めとられた時で、昨夜散々教え込まれた快楽へと引きずり込まれる。
 いつのまにか身体で覚えこんだ天野の動きに合わせてしまう自分がいる。それに甘んじていることで、さらに天野を意識せざるを得ない。
 息継ぎをする間もなく重ね合わされ、ただ一心に彼の想いを受け止める。
 力が抜けるのを感じた之路は、かろうじて相手のシャツを掴んで倒れそうな身体を支えた。そのまま頭部を抱き込まれる。
 離れた唇の水音がやけに生々しい。
「ずいぶん可愛いことを言うじゃないか」
「………っ」
 先ほどまで浮かべていた苦痛はどこへいったのか。揶揄するような言葉に之路はむっとする。
 顔を上げようにも頭から抱きかかえられては自由に動けない。抵抗をしかけたものの、之路は諦めて身体から力を抜いた。どっちにしてもここからは抜け出せない。
 いとも簡単に之路を封じてしまう男がずるいと思う。だがその腕の中で仕方がないと思う自分はもっと問題かもしれない。
 二人の間に沈黙が訪れる。だがそれは心地よいもので、言葉のない不安など微塵も浮かばない。
 耳をつけた胸から衣服越しに心臓の音が聞こえる。之路は異なったペースで走り続けるそれが、いつしか自分の音と重なるのを感じた。
 この感覚に覚えがある――。
 相手の温もりとにうっとりと目を伏せていると、ふいに天野が口を開いた。
「安心しろ。おまえの気持ちはわかっているから」
「……俺の?」
「そう。……俺のことが好きだろう?」
 夢心地から急激に現実へと覚まされた気分だ。
 顔が見えなくても天野があの強気な笑みを浮かべていることがわかる。思い浮かんだ瞬間之路は叫んだ。
「だっっれが!!
 その瞬間、天野の腕に力が込められた。先ほどまでの柔らかい雰囲気もどこへやら、二人の空気は一変する。
「……ほう?」
「あんたこそ、俺に対して言ってみろよ!」
 お互いに言わそうとするその姿は子供の口げんかそのものだ。
 抜け出そうともがく之路とそれを阻止する天野を第三者が見ていたら、いいかげんにしろと溜息をつくに違いない。だが、二人にとってはこれが普通となるのだろう予感がある。


 ――甘ったるい関係にはまだ程遠い。




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