陽のあたる場所 =12=




 次に之路が気づいたのは天野の住むマンションの前だった。抱き上げられる浮遊感に誘われるように、意識が浮上する。
「……ここ……?」
「もう少し寝てても良かったんだぞ」
 風に凪ぐ水面のような声に、之路は目を瞬かせた。つと視線を動かせば、目の前に天野の顔がある。その近さに思わず後退りしそうになり、窘められたのは言うまでもない。
「あの……」
「いいから大人しくしていろ。すぐに着く」
 エレベーターを使い、最上階に近いフロアで降りる。二人だけの空間だというのに会話は生まれない。
 硬い表情の彼に、之路は小さな溜息を漏らした。
 どうやって彼らが駆けつけてくれたのかは知らない。きっと面倒な子供だと、彼は感じていることだろう。
 一人で抜け出すこともできない、彼の手を煩わせている。
 ――以前、あんなことがあったにせよ。
 天野が黙ったまま無表情でいることが之路の心に不安をもたらす。数分も経過していないのに、その沈黙が耐えがたい時間に感じた。
 人一人を抱えているという負担を微塵も感じさせず、天野は之路を自分の部屋へと招き入れた。カードキーで施錠を解き、扉を肩で支える。センサーが人を察知して、自動で廊下に明かりが灯った。
「うわ……」
 一軒家に生まれてからずっと過ごしてきた之路にとって、こういった仕組は馴染みがない。小さな笑い声に、ようやく我に返ったほどだ。
 視線を向ければ、先ほどの怜悧さが消えていた。目元が和み、雰囲気が一変している。いつもの瞳で見つめられているのに気がつき、之路は顔を赤らめた。
 器用に靴を脱いだ天野は、その場で之路を見下ろした。服を握り締める之路の眉間に唇を寄せ、天野は囁く。
「どうする? このままベッドに行くか?」
「……あんたって、何でそうなんだよ」
 店で会う時の表情と口調に、之路は溜息をついた。誰よりも短い時間で之路を捕らえた男は、先ほどまでの触れたら切られそうな空気を一切消してしまっている。
 それでも彼の匂わす怒りは肌で感じる。それが、之路の行動を鈍らせていた。
 ――いや、それも言い訳に過ぎない。
 チャンスが今目の前に転がっているとわかっている。それでも、素直になるにはタイミングが悪い。
 今は何においても身体にまとわりつく全てを洗い流してしまいたかった。
「……シャワー」
 呟くような声に、天野が片眉を跳ね上げた。
「シャワー、浴びたい」




 之路のセリフをどうとったのか、天野は表情に出さなかった。無言のまま洗面所に之路を降ろし、姿を消している。
 着替えを持ってくる、と残された言葉に之路は苦笑をした。
 戸惑っているのはどちらも一緒、ということだろうか。少なくとも、自分は戸惑っていることを知っている。
 ソウにかけられたシーツを肩からすべり落とす。鏡に映る自分の姿から、之路は視線を反らした。
 ここに来たということは、またあの行為があるのだろうか。
 前回のことを思い出して、之路は体全体が火照るのを感じた。誰かを思い出すという行為に自嘲する。こんなこと、今までになかった。
 だが今回は事情が違う。今の之路は別の男に汚された後だ。その現場を見られたというオプション付きで。
 天野の気持ちがわからない。他の男に弄られた躯を抱こうという気持ちがあるのだろうか。
「ばっかみてー……」
 何よりも、天野の反応を気にしている自分が。
 扉を開けてバスルームに入る。迷わずシャワーの下に立ち、勢いのいい水に肌を叩かせる。
 真っ先にその水で口を濯ぐ。うがいをしてもし足りないほど、気持ちが悪い。
 そして正面に見つけた鏡に之路は表情を歪めた。
 色白で男として未熟な細い身体。その所々には村来がつけた所有の証が点々と散らばっている。村来のあの囁きが聞こえてきそうで、慌てて頭を振る。
 之路はボディシャンプーに手を伸ばし、泡立てたそれで身体中を余すとこなく洗い始めた。
 しかしどんなに掌が滑ろうと、之路は満足をしなかった。動かす手首に見える刻印のような赤い痕が、嫌でも目に付くのだ。
 泣きそうになりながら、之路は身体を泡で覆ってはシャワーで勢いよく洗い流すことを繰り返した。
 村来に触られた場所全てが不快で、之路は執拗に擦りつづけた。
 肌が赤くなるまで洗っても、あの執拗さが肌に残っている。
 一向に出る気配のない之路を心配したのだろう。ノックの後に断って風呂場を覗いた天野が、シャワーの下で肌を赤くした之路に眉を寄せた。
 扉を開けたまま入り込んだ天野は、今なお動かしつづける手首を捉える。
「もう、やめておけ」
「でもっ」
 反射的に見上げた之路は、自分でも涙で目頭が熱くなるのを感じた。普段なら慌てて隠すだろうそれに気を払う余裕さえない。
 あの男の跡が消えない。
 洗っても洗ってもそれは拭い去れない。それどころか時間が経つにつれて、肌に染み込んでいく気がするのだ。
 掴まれた腕を引こうとすると、逆に抱き込まれた。服に泡がつくのも構わず腰を抱きこむ彼に、之路のほうが慌てる。胸を押して離れようとすれば、それは力尽くで押さえ込まれた。
 あの夜のような強い瞳で之路を見下ろしている。気づいた瞬間、之路の胸が大きな音を立てた。
「ちょっと……!」
「いいから、やめろ」
「……だって、まだ……ぁ」
 たかが唇の接触。だが、いとも簡単に之路の抵抗を封じる。
 あの時と同じくらい強引で、優しい口づけ。怯えた之路を追い詰めることなく、宥めるように何度も啄まれた。
 それは表面での触合いなのに、之路を簡単に大人しくさせた。何度も角度を変えて重ねられ、之路の意識をこちらに向けさせる。
 呼吸が苦しくなった之路が唇を開くと、天野の舌がすかさず侵入してくる。
 押し返していた手がシャツを掴み、顎の下で之路を捕らえていた手が之路の後頭部へとまわった。更に仰向かせ髪をかきむしり、之路を思うがままに縛り付ける。
 之路が限界を知らせるように溜息をつけば、天野が唇だけで笑った。駄目押し代わりにもう一度だけ軽く触れると、どこかぼんやりした之路の頬を軽く撫でる。
「俺が消してやる」
 侵略の痕を消すことができるのは一つだけ。
 彼の言葉を理解するまでに数秒かかる。咀嚼した後でもまるで射止められたように、之路は天野の強い視線を受け止めていた。
 この男がどうして自分に関わるのかが理解できない。こんな身体など女と比較もできないのに、という思いが強い。
 躊躇いが之路を襲う。だが、拒めないのだ。
 この男を待ち望む自分がいる。
 黙ったまま反応を示せないでいる之路に、焦れた天野は手をその細い体に走らせる。動き始めたそれに之路は目の前の胸に手をついた。しかしそれは簡単に押さえ込まれる。
「……ふ……ぅ」
 再び塞がれた唇に意識を奪われ、之路はそれを受け入れざるをえなくなる。すぐに口腔を動き回る天野の舌を追いかけるだけで精一杯になった。
 その間も胸といわず背といわず天野の手が滑っていく。天野を助けるかのように働く泡が之路を更に煽っていた。
 消してやる、という言葉はすぐに愛撫へと代わり、之路を翻弄する。力の抜けた体を支えるのは之路の足だけではない。
 天野の指が二人の間にある場所にたどり着いた時、之路は思わず目を見開いた。
 わずかに反応したそれを撫でられて腰を退くが、先回りしていたもう片方の手がそれを阻止する。それどころか双丘を弄られる羽目になり、之路は声を殺した。だが、それもすぐに限界を示した。
 身体が変わる。
 誰かの手に触れられて、ではない。
 天野が触れることが、之路を煽る。
 彼の腕で熱に溺れようとする自分がいる。
「……やぁ……っ」
 首を振り拒絶を示すが受け入れられない。天野を止めようと腕に手をかけても、それは縋ることにしかならない。
 ふいに、背後を蠢いていた指が下へと滑り落ち、ある一点で止まる。泡を擦りつけられるその感触に之路は仰け反った。
 天野の指が何度か行き来したあと、内部へ入る素振りを見せる。頭を振る之路の髪へ、天野は軽いキスを落とした。
「汚い、よ……っ」
 之路の腕が弱々しく天野の胸を押し返す。それが生理的な拒絶なのか否かを見定めた天野は、之路の細い頤を捉えた。真っ向から目線を合わせ、言葉を紡ぐ。
「いくらでも綺麗にしてやるよ。おまえが望むままにな」
「………っ」
 之路が大きく目を見張る。
 応えるように、天野は笑みを浮かべた。そして目の前にある潤んだ瞳に唇を寄せる。
 之路を苦しませないためという名分で、あの男の――男たちの感触を消してやる。すべて、自分のものに塗り替えようという目論見に楽しくて仕方がない。
 之路が本格的に受入れるのはこれからだ。
 唇を滑らして目の前にある耳朶を甘噛した天野は、之路の目蓋がきつく閉じているのに気がつく。
「恐いか?」
「……恐い、よ。あんたが……ん……何考えてるのか、わかんないし」
 あの日、天野は之路を大事に抱いた。身体にかかる負担は多少なりともあったが、苦痛以外のものをももたらしたのを覚えている。
 その感覚に流されてしまえば、この間と同じことになる。
 相手の言葉と態度に怯え、自分を取り戻せなくなる予感が之路にはあった。
 だからこそ、このまま天野とコトに及ぶことが怖い。
 一瞬動きを止めた指が再び役割を持って之路を侵略し始める。内部で異物が動く感触に身体を仰け反らせながらも言葉を待つ之路に天野が喉で笑った。精悍な雰囲気に野生さが交じる。
「それこそ簡単なことだな。お前のことしか考えていない」
 あっさりと答えるのも天野らしい。おまけとばかりに指が角度を持ち、之路は身体を強張らせた。小さく声を漏らしながら、たくましい腕に掴まる。
 顔を赤くして睨むのは、動作と言葉とで揺さぶられる準備ができていなかったせいもある。だがそれ以上に自分と異なり、天野の態度があまりにも飄々としているからだ。この状況を楽しんでるとしか思えない。
「でなかったらお前を捜したりしない。また逃げられても困るしな」
「ぁ……っ」
「もっと早くソウと接触すると思っていたんだがな。あれは計算ミスだ」
 続けながら、天野は指を引き抜いた。その感触に思わず身体が震えてしまう。
 どうやら彼を媒体に天野は動くつもりだったらしい、とぼんやりした頭で考える。之路が早くソウに泣きつけば事態が変わっていたというのか。
 反論したい。そっちこそ連絡をしてくれればよかったじゃないか、と。
なのに、言葉が上手く出てこない。自分の言葉よりも、彼の続きが気になって仕方がない。
 天野が之路の頬を包む。
「お前を俺の手で自由にしてやる。――過去に縛られることのないように」
 それが、何を示すのかわからないほど之路は幼くはない。
 唇が触れるほどの位置で、天野に見つめられている。彼が、之路の反応を伺っているのは明白だった。
 彼を受け入れて――彼に受け入れられる。
 之路を精神の面で蝕んだ過去と、少しずつ動き始めた現在。想像をしたくてもできなかったことが今、もたらされようとしている。
 それでも躊躇いがある。
 逃げることだけに慣れた自身を見つめ直すのは、何よりも怖い。
 自分と向き合うこと、自分の気持ちを伝えること。それがこんなにも勇気のいることだとは考えもしなかった。
 そして望むことは望まないことよりも大変なことだと知った。
 それでも例えどんな形になろうとこの視線の下にいたいと思うことを、之路は許し始めていた。
 ふと訪れた沈黙。
 つと、悩む心に焦れたように、体が動く。
 だるい躯を騙しながら肘で上半身を起こした。視線を絡ませたまま、目の前にある唇に自分のそれを重ねる。
 奪われるのではなく、奪い合いたい。
 ここにあるのは自分の意志だ。
 之路の想いに応えるように、天野の腕が更に之路を強く抱きしめた。




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