―――カレラハ、ドウセイアイシャ、デス。

 

 

 松澤の口から放たれた音は、頭の中で知識と結びつかなかった。

 幾度も頭の中で彼の言葉を繰り返す。

 ようやく漢字変換ができ、意味を理解した之路は自身の体が強張っているのに気がついた。

 自分と同じ性を持つ相手を欲望の相手として見ること。それは良くあることだとは思わないが、「そんな人間もいるんだ」程度にしか思わなかった。―――今までは。

 自分がその対象に含まれるのだと体で理解させられ、必死であの場から立ち去ったことが脳裏を過ぎる。

 忘れるにはまだ克明な事実。あの時抱いた恐怖は今も之路を苛み、自身よりも大きな人物を前にすると体が竦んでしまう。

 その人物が自分に何をするかわからない。

 だからこそ、蒼にも尚貴にも怯えた表情をみせた。

 ようやく全ての人間があの男たちと違うことを覚え始めたばかりなのに―――。

「マイノリティを攻撃するのは当然といえばそうだが……陳腐だな」

 酷薄な笑みを浮かべ、皮肉たっぷりに告げた尚貴の声が之路の思考を止める。ぎこちなく顔を向けると、一瞬だけその視線を感じた。すぐに反らされた彼の瞳は、目前の相手へと向けられる。

「それで? 蒼と一緒に暮らしているってことだけが根拠か?」

「ではお聞きしますが、お二人はどうして一緒に暮らしているのですか? とあるバーの店員と客の関係でしかないはずですよね。そして時折お二人でホテルに泊まられている」

「お互いに共通の知人がいて、そいつと待ち合わせるときはホテルのバーが多いんだ」

「帰れる距離なのにわざわざ宿泊されているようですね。ああ、バーに寄らなかったという証拠もありますよ」

 まるで今にも王手と叫びだしそうな松澤を尻目に、尚貴は溜息をつく。ソファの背に凭れかかると、顔を蒼のほうへと向けた。

「蒼、おまえのとこの店員、口が軽いんじゃないのか?」

「うちとは決まったわけじゃないけど……うん、とりあえず徹底させます」

「ついでにホテル側にも言っておけ」

 肩を竦めて応えた蒼は徐に立ち上がると、静かな足取りで尚貴の横に立つ。

「ユキ」

 名前を呼ばれた本人は大きく体を揺らし、一瞬の間をおいて蒼へと体ごと向き直った。意識していたつもりだったが、複雑な感情が表に出ていたのだろう。その様子に寂しげな表情を浮かべながらも、蒼は之路と視線を合わせた。

「ねぇユキ。僕たちが同性愛者だとしたら、君はどうする?」

 蒼の口から改めてその言葉が出されると、衝撃は大きい。恐る恐る出した声は少し震えていた。

「……本当に、そうなの?」

「もしもそうだったら、ユキは僕たちを軽蔑する?」

 イエスともノーともない蒼を困惑の表情で見上げ、そしてすぐに視線を落とした。

 正直言って、“同性愛者”が恐い。

 彼らの恋愛対象に、果ては性欲の対象に自分が含まれてしまうという恐怖心が之路を苛んでいる。

 見知らぬ男たちに犯されたのも、全ては自分のせい。そう考えなければ自分自身を繋ぎ止めておくことができなくなるほど、之路は追い詰められていた。

 全ての同性が同じ目で之路を見ているのだと思い込んでしまうほどに。

 今でもその恐怖心が和らいだわけではない。

 だが、全ての人間に身構える必要がないことを知った。

 壊れそうになっている之路を繋ぎとめてくれたのは蒼で、教えてくれたのは尚貴だ。

 少なくとも彼らが之路を欲望に満ちた眼差しで見ないことを、之路は知っている。

 顔を上げ、不安そうに見つめている瞳とぶつかった。傷つけてしまったことを心で詫び、視線を絡ませたまま微笑んでみせた。

「軽蔑なんて、しない。……そんなことできないよ」

「ユキ……」

 呆然と名を呼ぶ蒼の腕に、ゆっくりと手を伸ばす。

 彼らに自分から触れるのは、きっとこれが初めてのことだ。

「だって、俺が今こうしていられるの、二人のおかげだもん。あなたたちがいなかったら、きっと野垂れ死にしてたかもね」

「……ありがとう」

 抱きしめてくる腕を厭わしいとは思わない。素直にその胸に抱き寄せられていると、ほぼ同時に咎めるような声音で名を呼ばれた。

「之路さん!」

 背後から届いた松澤の声を無視し、之路は尚貴へと視線を送る。

 蒼と同じような感情の色をそこに見つけ、ごめん、と小さく謝った。僅かに表情が変わるのを見て、之路は改めて口を開く。

「尚貴さんは、男の人が好きなの?」

「馬鹿言え。俺は、男に走った覚えはない」

「じゃ、蒼さんは?」

「――――生意気なことを聞くのは、この口か?」

「い、痛いって……っ!」

 伸びてきた指がむにっと頬をつまみ、僅かに引っ張った。走った痛みに声をあげると、蒼が止める様尚貴の腕を叩く。

 ちょっかいを出してくる尚貴と、それを嗜める蒼。

 壊したくなかった空気が戻ってきたことに、之路の目頭が熱くなった。慌てて俯くと、大きな掌が頭に乗せられ、呼応するように、之路を抱き寄せる腕の力が強くなる。

 この二人に囲まれていることがこんなに嬉しいなんて、気づきもしなかった。

 ただ目を瞑るだけで精一杯だった之路を、彼らはどんな思いで見つめてくれていたのだろうか。

 二人の懐の広さを今更ながらに知り、そして感謝の念を抱く。

 もう少しだけ彼らに甘えさせてもらいたいと思うのは、贅沢な望みだろうか。

「……俺、ここにいたい」

 自然と零れた呟きは思いの外大きかったらしい。誰もが息を呑んだような空気が漂う。

 一度音にしたことで気が軽くなったのか、之路は顔を上げ、蒼と尚貴を交互に見つめながら口を開いた。

「もう少しここにいさせてもらったら、駄目?」

「ユキ……」

「俺、あなたたちに拾ってもらえなかったら、どうなっていたのか自分でもわからない。……人が恐くて、人の気配に怯えて、何も見ない、何も聴かない振りで―――少なくとも、今の自分ではいられなかったと思う」

 自分の言葉を想像し、之路は顔を俯かせる。

「あなたたちには凄く迷惑をかけて……でも、俺……っ」

「―――之路」

 穏やかな声が、暗い淵へと落ちかけた之路を救う。

 促されるまま顔を上げると、覗き込むような位置で尚貴と視線がかち合った。

「俺たちはおまえと縁を切るつもりはないし、おまえが望むのならいつまでも手助けをしてやる。だから、自分で自分を追い込むな」

「……尚貴さん」

「お馬鹿だね、ユキは」

「蒼さん……っ」

 それぞれの優しい眼差しに叱られ、之路が再び俯こうとする。だが、それを止められ、その頬に伝う涙を蒼の指がゆっくりと拭う。

「泣きたいときは泣いてもいい。今から我慢することを覚えていたら損するよ」

「…………っ」

「子供は泣くのが仕事だからな。そのうち嫌でも泣けなくなるときがくるさ」

 蒼の言葉に涙腺が緩み、尚貴の言葉に笑みが浮かんだ。

 泣き笑いというのは、まさにこれを言うのだろう。

 自分の取っている行動を外から眺め、その行為に之路は自身を笑う。



 それこそ、心の余裕が出ている証拠なのだということを、之路はまだ知らないでいた。




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