「ウィングヒルの社長秘書をしております松澤と申します」

 リビングに入ってきた彼は、まずは自己紹介とばかりに名刺を尚貴に差し出した。

 尚貴はそれを受け取ると彼をソファへと促した。

 二人のやり取りを横で見つめた之路は、一人複雑な表情を浮かべる。

 どうやって、ここを知ったんだろう。

 彼の名前を聞いたときからずっとこの疑問が之路を悩ませている。

 この部屋に連れてこられた翌日、之路は「今、よそでお世話になってます」と簡単なメッセージを自宅の留守電に残した。言葉足らずと思わなくもなかったが、あの時はそれ以上言葉を重ねる気にはならなかったし、今でもどうしてここで過ごしているのかを説明できる自信はない。

 どうせ滅多に帰ってこないのだから、と安易に考えていた部分もどこかにあったのだろう。詳細な居場所を知らせなかった之路の前に、まさか父親の秘書である松澤が訪れるとは思わなかった。

 彼と初めて会ったのは小学校に上がる前で、もうすぐ十年が経つ。仕事命の両親に代わり、保護者宛の連絡も全て彼が返答し、三者面談等も両親ではなく彼が出席し続けている。之路の学校に関することも彼の仕事の一部なのだ。

 之路にとっては親代わりの存在に近く、彼に叱られることは彼らの言葉よりも重い。

 だが今之路が抱える不安は、叱られることではなく、彼に全てを知られることで彼に何を思われるかにある。

 対面式ソファに尚貴と松澤が向かい合い、之路が尚貴の横に座る。蒼はお茶を出した後、少し離れたダイニングからこちらを窺う手筈だ。

 蒼が三人分のお茶を持ってきた。静かに置かれた湯飲みからは、その熱を証明するかのように湯気が立ち上っている。去り際にそっと視線で励まされた之路が彼を見送っていると、松澤が口火を切った。

「このたびは之路さんがお二人にご迷惑をおかけしたようで、彼の父である羽丘が大変恐縮しております。つきましては、どうかこちらをお受け取りいただきたい、と」

 彼の鞄から出てきたのは、何も書かれていない真っ白な定形封筒だった。それなりに厚みのあるそれを尚貴の前に置くと、松澤は之路へと向き直る。

「之路さん、社長と奥様が心配なさってますよ。どうか早く顔をお見せになって、お二人を安心させてあげてください」

 その言葉に之路は自分の感情が凍りつくのを感じた。

 あの二人には之路に関して心配するなんてことはないだろう。自分たちの仕事が第一で、之路の成長に興味のない彼らなのに、どこをどうしたら心配なんて言葉を浮かべるというのか。之路が家に帰っていないことを知ったのも、おそらく松澤が家を訪問するか何かで知ったはずだ。

 松澤にそう言ったとしても、それは表面上のことだし白々しいことこの上ない。

 之路を覆っていた暗雲は一瞬で吹き飛んでしまった。あまりの馬鹿馬鹿しさに言い返してやろうと思ったそのとき、尚貴が酷く平淡な声音で言葉を紡いだ。

「松澤さん、そちらを下げていただけますか」

「……どういうことでしょう?」

 途端に之路から視線が逸れた。眉を潜める彼の表情には不信感がありありと溢れている。

「それでは不足ということでしょうか?」

「違いますよ。これを受け取る謂れはないということです」

 対する尚貴の態度は飄々としたものだ。一回り以上年上の相手に向かって微苦笑さえ浮かべてみせた。

「私たちは確かに之路を保護し、僅かな期間ですが彼と共に生活をしてきました。それは、このような形で表現されるべき時間ではありません。もしも迷惑料をということであれば、之路本人から返してもらうのが筋というものでしょう。貴方から―――彼のご両親から受け取るつもりはありません」

 封筒を一瞥することもなく、松澤を見つめたままはっきりとした意志を示す。その姿を見つめていると、こちらを振り向いた彼が小さく告げた。

「全ておまえから取り立てるからな。覚悟しておけよ」

 それはつまり、二人とはこれっきりの関係にはさせないということだろうか。

 驚きに目を瞬かせる之路に彼が笑いかける。素直に頷きかけたその時、強い声が割り込んできた。

「そういうわけにも参りません」

 視線を向けると、声音以上に硬い表情をした松澤がいる。

「お二人には之路さんとのことをお忘れいただきたい、これが羽丘の意思です」

「承服しかねますね。そんな権限は例え親だろうと持たない」

「そう、そして貴方たちにもありません。ですが、羽丘は之路さんの父親です。未成年は保護者の監督下に置く義務があり、彼の行く手を遮る者を排除する権利があります」

「松澤さん! 何でそんな……」

 まるで尚貴達の存在すらを否定するような言葉に、之路は溜まらず声を荒げる。だが、それに対する松澤の態度は変わらなかった。

「貴方はようやく義務教育を終えられるところに来られたばかりです。まだ世間というものを理解されてはいません。お父様のお言葉に従われるべきです」

「父さんがなんだって言うんだよ! あの人は僕が何しようと気にしない―――」

「お父様には守るべき世界がおありなのです。貴方の行動がお父様にも影響をするということをきちんと理解なさってください」

「なんだよ、それ……」

「つまり、之路と俺たちとの関係が他人にばれたら困る。そういうことですね」

 尚貴の言い換えたそれに、之路はようやく松澤の言わんとすることを理解できた。だが、納得とは百八十度逆側にいる。

 傷ついた之路を見守ってくれたのは蒼だし、身構える之路を知りながらも気づかない振りで接してくれたのは尚貴だ。彼らがいなければ今こうして松澤と対峙する気にさえなれなかっただろう。

 それを、彼はなんて重みのない言葉で否定しようとしているのだろうか。

 抗議をするために身を乗り出しかけた之路を、尚貴が手振りだけで止める。

「これはまた、随分な言われようだな」

 がらりと変わった口調と薄い唇に浮かんだ笑みがそこに存在した。

 先ほどまであったよそ行きの態度はなりを潜め、代わりに彼の意志の強さが全面に出されている。年齢差があったとしても自分を崩すことなく対峙するその姿は、その場凌ぎで作り上げられたものには思えない。

 もしかしたらこれが本来の彼なのだろうか。

 初めて見る圧倒的な空気に呑まれ、之路は呆然とする。

「そこまではっきりと断言される理由をお聞かせ願いましょうか」

「よろしいのですか? 之路さんの耳に入ることは貴方にとってプラス要因ではないと思われますが」

 意味ありげにちらりと視線が向けられる。まるで「私は気が進まないのですが」と言い訳しているみたいだ。

 尚貴もそれに気がついたのだろう。松澤のわざとらしい行動を鼻で笑った。

「そうだな、ついでにそれを知ったきっかけまで話していただきましょうか。―――ま、大方こいつの足取りを拾ったついでだろうが」

「……俺の?」

 それは、あの部屋で怒った全てを彼らが理解しているということなのだろうか。

 咄嗟に顔を強張らせた之路に気づき、松澤が咎めるような視線を尚貴に向ける。

「宮古さん、何も之路さんの前で……」

 渋面を作る松澤に尚貴はきっぱりと宣告する。

「之路が今ここで知るか後で知るかの違いだろう?」

 今後あんたたちの顔色を窺いながら生活させたくないんだよ。

 一歩も譲る気のない瞳に見据えられ、松澤は黙り込む。だが次の瞬間、彼は顔を上げると之路に視線を合わせた。

「之路さんが家に帰っていないようだと家政婦から連絡がありました。慌てて足取りを追い、こちらでお世話になっているようだと突き止めたのは数日前です」

 数日という短くて長い空白の時間が示すものは、何。

「貴方の言う『よそ』が、本当に『よそ』なのかを知るために時間を要したんです」

「本当の『よそ』?」

「家出かどうかってことだろうよ」

「…………」

「以前からの知り合いのようには思えませんし、繋がりも見えなかったので、仕方なかったんです」

「それで、共通点は見つかったのか?」

 どこか楽しそうに問いてきた尚貴に、「残念ながら、何も」と彼は不快の念を示す。

 それも当然のことだろうと之路は内心で頷く。

 之路が蒼と出会ったのは偶然のことだし、拾われたのも彼がその気になったからだ。調べて何かが出てくるような間柄ではない。

「そこで、宮古さんたちのことを調べさせていただきました」

「松澤さん!」

 名前を呼ぶことで言外に咎めると、彼は厳しい表情で之路を見つめる。

「貴方のためです、之路さん」

「違うだろ、全部父さんたちのためじゃないか! 俺が誰とどんな付き合いをしているのか把握してないと気がすまないだけだろう!?

「之路」

「尚貴さん、だって―――」

「いいから。―――それで? 何が出てきたって?」

 落ち着けと宥める尚貴にはどことなく楽しんでいる節がある。松澤は彼を一瞥すると、改めて之路へと向き直った。

 その表情からどこか勝ち誇った愉悦が感じられ、之路は不信感から眉を顰める。

「之路さん、この方たちがなぜ男同士で生活をしている理由をご存知ですか?」

「理由?」

「おや、不思議に思われませんでしたか? いい大人同士が、どうして同じ屋根の下に二人っきりで暮らすんです?」

 突きつけられた質問に、之路は黙り込む。

 気にならなかったといえば嘘になるだろう。実際答えは得られなかったが、つい先ほど尚貴にその話題を振ったのだ。

 だが、その疑問を松澤のように攻撃要素として使うなんてことは少しも考えなかった。純粋に、彼らのことを知りたいと思う気持ちが之路の中に湧き上がったからに過ぎない。

 之路の沈黙が答えだと思ったのだろう、松澤が再び口を開いた。


 

「彼らは同性愛者です」




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