二人から向けられた温かさに身を委ねる之路を、松澤は神妙な表情で見つめていた。

 彼の知る之路は大人びていて、時にはこちらが言葉を探すほど穿った言い方をする子供だった。一を言えば十を知るほど聡明で、手を煩わされたことは記憶にない。両親も同様のはずで、その彼がいなくなったと聞きいたとき、何かの間違いだろうと取り合わなかったほどだ。

 素直に人に涙を見せ、あまつさえその気持ちを吐露する姿なんて、想像などしたこともなかった。

 考えてみれば、彼はまだ義務教育を終えかけたところだ。自分たちがいかに都合よく彼の成長を考えていたのかを突きつけられた気がする。

 愕然と目前の光景を眺めていると、この家の主が廊下へと目で促していた。

 この男が之路を変えたのか。複雑な思いで従うと、リビングへと繋がる扉を閉めた彼は開口一番に予想外の言葉を告げた。

「之路の家は、マンションだろうか」

「……どのような意図でのご質問でしょうか」

「あんたが持ってきた金で頭金とか、初期費用はでるだろう? もしも引越しが可能なら、今すぐに取り掛かってもらいたい。少なくとも、建物が視界に入らないような立地条件がいいだろう。そうでなければ、あいつは家に帰ることもできないはずだ」

「そ、それは、どういうことでしょうか!?

 帰ることもできない。その断定された深刻な言葉に松澤は顔を強張らせる。

 それを見た尚貴はあからさまな溜息をついた。少しは考えろ、と頭を指でノックする。

「あんた、之路の足取りを追ったと言ってたな。だったら、どこであいつの身に何があったのかを知ってるな? あんただったら、その現場に毎日帰りたいと思うか?」

「あ…………」

「まだあいつは子供だ。転びそうなときに手を貸さなくていいが、見えてる棘は取ってやってくれよ。……落ち着くまでうちで預かるからな」

「…………わかりました。至急羽丘に相談してみます」

 引越し等が全て済まない限り、之路は自宅に帰らないということか。

 明らかに自分のほうがわかっているのだと言う態度にむっとするが、その半面で納得できる気持ちがあるために何も言えない。

 付き合いはこちらのほうが何十倍も長いというのに、之路の心については彼のほうが上手である。それもそうだろう、彼は―――いや、彼らは年相応の之路を引き出すことに成功した人物なのだから。

 複雑な心境が表情に出たのだろう、面白いと言わんばかりに尚貴が片眉を跳ね上げる。

 内心を素直に認めるのも悔しくて、松澤はそれを見なかったことにした。話は終わったとばかりにリビングへと戻る。すると、つい先ほどまで家主が座っていた場所に蒼という青年が座り、その横には之路がどこか深刻な表情で話に相づちを打っていた。

 先ほどまで見せていた強がりな態度はなりを潜め、蒼との会話を真剣に聞いている。

 あの顔も、今まで自分たちは引き出せなかったな。

 一つ溜息と落とすと、松澤はソファに立てかけておいた鞄を手に取った。之路の視線に気づいた松澤は、心配そうな視線に苦笑を浮かべてみせる。

 こんな顔も、もしかしたら見ることができなかったのかもしれない。

「私は一度ご両親の元に戻ります。宮古さんの意向を伝えた上で、また改めてお邪魔させていただくことになるかと」

「それって……」

「またご連絡を差し上げます。それまで、之路さんはもう少しこちらでお世話になってください」

 途端にぱっと輝く笑顔が向けられたことで、松澤は自身の決意を新たにする。

 まずは彼の両親に、事を詳細に説明することなく之路の安否を伝える。そして、自宅移転の話を進めなくては。

 上司の意志を変えさせなければならないのは骨が折れるが、この笑顔をまた見ることができるのならば報われる。

 ぐっと鞄を持つ手に力が篭められる。それに気づいた蒼は微かに目元を和らげた。

「では、失礼します」

 頭を下げ玄関へと向かう松澤を、尚貴の声が追ってくる。

「忘れ物ですよ」

 尚貴が示すのは松澤が持ってきた封筒。

 彼は静かに首を横に振ると、尚貴を正面から捉えていった。

「それは、之路さんがこちらでお世話になることへのお礼です。何かと物入りになるでしょうから、その際はそちらからお出しください」

「……あいつに関する出費くらいで揺るがない稼ぎはあるつもりなんだが」

「人間が生活をするためには生活費というものが必要でしょう。それくらいは負担させてもらえませんか」

 お願いします、と頭を下げた松澤は、思い出したように言葉を繋げる。

「ああ、あと一つだけ謝らなければ。ご不快な気持ちにさせてしまい、申し訳ありませんでした」

 こちらが本来の松澤なのだろう。先ほどまでの攻撃的な態度はなりを潜め、生真面目に対応する姿に尚貴は僅かに口角を持ち上げる。

 先ほどの行為はあくまでも之路を取り返そうとしたまでと匂わす相手に、尚貴は肩を竦めるだけで無言を通した。

 自分たちの関係を真っ向から糾弾されたのはこれで二度目のこと。誰もに受け入れられるものではないと納得していても、気持ちがいいものではない。

 何れにせよ、今更の詫びを受け入れるかどうかは別のこと。言葉上で謝罪を発せられたことだけは認めるべきだろう。

 自然と松澤を見送ることになった尚貴は、玄関が閉じるのを待ってからリビングへと踵を返す。

 ガラス戸の向こうではソファに蒼と之路が並んで座って談笑をしていた。今まで之路の中にあった境界線が、傍目からでもわかるほど消えたのが解る。

 ぎこちなさは微かに残るものの、蒼に向ける表情は取り繕われたものではない。

 扉を開けると、ソファから二人分の視線が向けられた。怯えを含まないそれに、燻っていた不快感が少しだけ軽くなる。

 蒼のため、と大義名分をつけていたはずなのに、いつのまにか守ってやりたいと思うようになった。どうやら懐に深く入れすぎたらしい。

 だが、それもまた自然の成り行きというものか。

「蒼、腹減った」

「あ、そうか、ご飯の準備途中だったもんね。ユキ、手伝ってくれる?」

「え? 俺やったことないよ?」

「男子厨房に入らずってのはもう死語なんだから、簡単な料理くらいできないとね。今回は温めなおすだけだから、ユキでもできるよ。ほら、教えてあげるからおいで」

 強引に促され、断る術を求めて之路の視線が彷徨った。それに目だけで観念するよう示せば、諦めたのか蒼に連行されていく。

 その後姿を見つめながら、尚貴は思う。

 今の之路を包むのは、朔という全てが無に帰す時間なのだろうと。

 太陽に背後から覆われた月が新月として姿を再生するように、彼もこれからの時間を使って、羽丘之路という人間を再構成していくことになる。

 かつては親にも周囲にも自身の思いを言葉で返せなかった彼が、これからはようやく反撃の時を迎えるのだ。

 親の立場があるから、なんて知った風な口を聞くのはただ小賢しいだけだ。ただ、欲しいものは欲しいと堂々と言えるようになるまでは、もう少しの時間が必要だろう。

 尚貴にもそんな時期がなかったとは言わない。もっとも、自分は親への反発心から素直に否なものを拒み続け、都合のいいように流してきた。

 特定の誰かを得ようともせずに生き、そして蒼に出逢った。あの日、あのとき、あの場所にいなければ、彼と今の生活を送ることはなかっただろう。

 自分は幸福なのだと思う。

 半身という言葉でも言い表せないほど、なくてはならない相手に出会えたのだから。

 向けていた視線をふっと和らげる。

 之路にも、いつかは彼の片翼が見つかるだろう。

 探りあい傷つけあいながらも、互いしか目に入らないという関係を誰かと結ぶことができたのなら―――そのときこそ、彼が本当に心のそこから癒されることになる。

 これから先は長い道程が彼を待ち構えている。

 立ち止まりたいとき、迷ったときはここにいればいい。

 彼の居場所はここにあるのだから。

 キッチンから届く声を聞きながら、尚貴は新聞へと手を伸ばした。

 

 



END




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