カウントダウンの恋 2




 僕たち工藤一家が都心から少し離れた土地に引越しを決めたのは、偏に僕の身体の事情によるものだ。

 幼稚園に通いだした頃、僕は小さな発作を起こした。それは運動誘発喘息という喘息の一種で、走り回ると呼吸が乱れ、発作を起こすというもの。

 病院に駆け込み病名を知った両親は、少しでも環境のよい場所へと引っ越すことを選択した。

 父親が職場に通え、専門医がいて、なおかつ時間外診察をしてくれてる小児科のある病院へほどほどの時間で移動できる場所。ついでに僕が無理なく通える範囲で学校があればいい。その三点を条件に、両親はこの街を選んだ。

 その後、僕は両親の薦めで青南大学付属の小等部に進学した。最初の入学という難関を越えてしまえば、のんびりした校風が僕の身体に負担をかけないだろうと判断したらしい。家から一駅の距離というのも魅力的だった。

 そしてかかりつけの病院は車で十五分の距離。「無理さえしなければ健康になれる。健康な生活が出来るようになろう」と厳しくも優しいおじいちゃん先生が言ったことは今でも覚えている。

 でも、当然のことながら僕は騒ぎ盛りの子供で、おじいちゃん先生の言う「無理」が納得できなかった。

 体力もないから外で走ることもできない。

 走れば苦しいから、みんなと騒ぐこともできない。

 同級生たちと放課後遊ぶこともできない。

 ないない尽くしに耐えられなくて。

 そんな弟の相手役を買って出たのは三歳年上の姉、実里だ。

 たった三歳しか違わないのによくあんなに面倒を見てくれたものだ、と今でも他人事のように感心する。

 実際ご近所では弟思いで評判の姉は、将来の夢を小児科の女医と宣言している。僕に付き添って病院へ出入りするうちに、将来の目標が決まったらしい。

『聡里が私立だから、私は国公立で進学する。でも大学でかかるたくさんの費用はさすがに払ってね』

 目標が決まれば後は走るだけ、というのが彼女らしく、その道筋はすでに出来上がっていた。近い未来の必須科目は傍から見ても苦手と言えない範囲で成績を修めている。

『一度決めたら自分が納得するところまで行かないとね。後悔するのだけはごめんだもの』

 言葉は違っても、昔からこれが姉の口癖だった。気づいたら僕はこの言葉に洗脳されていたんだと思う。

 あるとき、ふと考えたのだ。

 僕のできることは何だろう、と。

 それは出来る限り健康な身体に近づくことだ。家族に心配をかけてベッドで横になる回数を少しでも減らしたい。

 それ以来、無理しない程度に自分でも身体を意識するようになった。

 体力をつけたいからできる限り身体は動かして、でも無理はしない。嫌いな薬も我慢して。

 そのおかげか、小さな発作はあるにしても大事がないまま去年、中等部へと進学した。今では小児科とますます縁遠くなっている。その証拠というほどでもないが、今では体育にちゃんと参加もできるようになってきた。激しい運動に対して未だ制限があるは仕方がないと諦めているし。

 問題があるとすれば、同学年との体格差だ。しっかり走り回れなかったせいか、周りと比べても筋肉量が少なく身体も一回りは小さい。

 姉と並んでも同じくらい線が細い。そう言われて嬉しい男がどこにいるというのか。

「誉め言葉じゃないっての」

 僕の小さな呟きを耳に留めた人間は誰もいない。

 今は体育の時間で、級友たちは僕の目の前でサッカーの紅白戦に夢中だ。試合に参加していない級友たちも応援に勤しんでいる。

 自分が参加しているような感覚でいられるからこそできる、一体感。

 それを横目で見ながら、僕は溜め息を零した。

 僕の身体は基本的に持久力を試すものに弱い。おかげで根性勝負の持久走とは縁がないものの、サッカーのように地面を走り回るスポーツもこうして見学することになる。

 正直、小学生の頃は何の心配もなく走り回る友人たちが羨ましいと何度も思った。

『聡里はいいよな』

 そう言われるのが何よりも辛かった。

 彼らが笑い声を上げながら動く姿を、僕はただ見つめることしかできない。体育もほぼ見学で、昼休みに校庭で追いかけっこをして遊ぶなんてことは当然無理。そんな状況の、何が良いというのだろうか。

 僕だって走りたい。

 思う存分遊びたい。

 どうして僕だけが参加できないのだろう。

 納得しているつもりでも、納得の出来ない感情が時として沸き起こる。

 そんなときは、純粋なる家族の励ましの言葉が時折負荷となって僕の心を重くした。おじいちゃん先生が、もう少しの辛抱だと慰めてくれる言葉を突っぱねたこともある。

 そんな僕を支えてくれたのは、あの引越し当日に見かけた少年だ。

 僕のひとつ上の彼は芳原誠吾といって、うちの斜向かいのご近所さんでもある。

 学区域の公立小学校に通っていた彼は、本来なら必要最低限の接触しかないはずだった。それが幼馴染という存在となり、今や同じ学校に通う先輩後輩の関係にある。

 そう、僕が先に通っていたこの学校に、彼は中等部から生徒として通っているのだ。

 彼の一日はすべて剣道で埋められ、朝は道場で稽古、昼間は学校と部活動、そして帰ると再び道場へ赴く。おかげで昨年はインターハイが見えたと、剣道部が喜んでいたほどだ。

 そんな剣道漬けの彼と体育でさえ見学する僕が、なぜ幼馴染になったのか。それは、同じ学校へ一緒に通っていた姉が接点になってくれたからだ。

 私立へ通う僕とは別に、彼らは登校班が一緒で毎朝仲良く学校へと向かっていた。それが羨ましくてでも口に出せなくて、子供心に悲しかったのを覚えている。

 そんな僕の感情を両親なり姉なりが読んでいたのだろう。ある日彼は我が家に遊びに来て、それ以来何だかんだとお互いの家に行き来することが多くなった。

 年の離れた兄を持つ彼にとって、僕は弟のような存在になれたのだと思う。もちろん、一緒に外で遊ぶことは出来ないけれど。

 家の中で遊ぶ僕らに、一度姉が『誠吾はあんたに甘い』と言ったことがあった。

 それも、呆れるほど、というおまけ付きで。

 僕には姉の言う「甘い」という意味がわからない。僕にとって、彼は僕を同年代の子供として扱ってくれた最初の人だった。

 そして、苛立つ僕を慰めることなく、諭すことなく、ただ側にいてくれた人。

 体力のない僕に呆れることなく付き合ってくれた人。

「……思い出しちゃったよ」

 今朝の表情が脳裏に浮かぶ。

 階段脇でこちらを見つめる彼と目が合ったとき、心臓が鷲掴みされたような感覚になった。走り去る僕を追いかけてきた声は、今でも耳に残っている。

 彼と顔を合わせたのはどれくらいぶりだろう。考えて、僕は自嘲の笑みを浮かべた。

「……何考えているんだか」

 斜向かいのご近所サンなのに、一月くらい顔を合わせてない。彼と行動時間が違うというのもあるけれど、一番の原因は僕が意図的に避けているからだ。

 彼の、強くて優しい態度を苦しいと思い始めたのはいつが最初だったのか。

 彼の視線が恐くて、でも視界の中にはいつもいたいと思う、天邪鬼な心。

 助けてくれる手が嬉しくて、でもそれを拒みたくなってしまう、心の矛盾。

 でも一番の理由は。

「……ほんと、嫌になる」

 気づけば零れる溜め息を誤魔化したくて、僕は膝に顔を埋めた。





back   NOVEL     next




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送