カウントダウンの恋 1




「聡里―っ」

 下駄箱から教室へと向かう途中、遠くから名前を呼ばれた。見ると同級生の上田龍二がこちらに向かって手を振っていた。

 平均身長をわずかに超える僕とは違って成長期を満喫している彼は、運動神経も僕と比較にならないほど良い。

 彼とは部活も選択授業も違うけれど、一緒に行動することが多い。ミスマッチな組み合わせだとは思うけれど、今ではそれが当たり前だと周囲からも思われているようだ。

 そんな彼はうちの学校では比較的上下関係の厳しいテニス部に所属していて、三年生が占めるレギュラーの座まで後一歩という位置を保ち続けているらしい。もっとも本人談なので、どこまで本当のことかはわからないのだが。

「おはよう、龍二。今日は朝練じゃなかったの?」

 走り寄ってきた彼の姿はどう見ても制服姿だ。いつも朝練の後はクールダウンと称して半袖にジャージ姿で教室まで戻るのに。

 歩き出しながら問うと、彼が眉根を寄せる。

「朝練だったよ。でも今日は時間がもったいなくて」

「時間がもったいない?」

 何の話かと視線を向ければ、数学の課題が終わっていないと返ってきた。

「はぁ!? だって今日提出じゃないか」

「教科書を開いたまま寝ちゃったんだよな。気づいたら朝練に行く時間でびっくりしたよ。間に合ったのは奇跡だと思うね」

 寝坊したなんて言い訳が通じないのはどの部活でも同じだろう。ましてや上下関係が著しいテニス部では、やる気がないと見なされる可能性もある。

 課題よりも朝練を選択するのは龍二らしい。だからといってそれが課題をサボる口実にはならない。特に僕たちの数学担当教諭は学科主任ということもあって厳しく、課題の提出遅れを何よりも嫌う。たった一回のミスで成績表に大きな影響もありうるのだ。

 龍二にとって数学は最大の天敵らしく、成績表を見ては唸ることが多い。補講にでもなれば部活に参加する時間が少なくなることもあって、できればテスト以外の減点は避けたいところだろう。しかし授業は昼前の二限目で、数学の苦手な裕也が短い休み時間で課題を終わらせるとは到底思えない。

 こうなるといつものパターンになるかな。横目で見やると、案の定龍二が両手を合わせて拝んできた。

「お願いします、聡里様、課題を見せてください」

 縋るような視線に、先が読めていた僕はにっこりと笑んだ。頼られるのは嫌じゃないけれど、何事もギブアンドテイクって言うしね。

「今週のA定食って何だったっけ? あ、デザートはプリンが食べたいかも」

 今までは凄く混む購買で希少パンを買ってきてもらったりしていたけれど、今日は定食が食べたい気分だった。もちろん、パンよりも定食のほうが高い。

「……さとりぃ」

「何? 自力で終わらせる?」

 笑顔を貼り付けたまま小首を傾げると、龍二が言葉に詰まった。それはそうだろう、龍二は数学が何よりも嫌いなのだから。

 彼が迷ったのは一瞬だけだった。

「ごめんなさい、見せてください。お昼も奢らせていただきます」

「取引成立だね。……はい、ノート」

「聡里様感謝します!」

「ちょ、龍二!!

 龍二は良い意味でも悪い意味でもボディ・ランゲージが発達している。普段話している分には気にならないけれど、こういうときは正直迷惑だ。

 諸手を挙げて抱きつこうとする龍二を鞄で押しのける。そうすると彼が面白がって意地でも抱きつこうとするから悪循環だ。

 だからといって僕には男に抱かれて喜ぶ趣味がない。おまけにこんな公衆の面前で、誰が直に抱きつかれてやるものか。

 必死で防いでいると背後から楽しそうな声が聞こえた。

「聡里、もてる男は辛いな」

 聞き覚えのある声にそのままの態勢で振り返ると、今年の生徒会長と副会長が並んでいた。

「……斎賀会長、羽柴副会長も……」

 予想外の人物が登場したせいか、龍二は二人の名前を呼ぶと同時に体から力を抜く。それにほっとした僕は龍二から離れ、彼らのほうへと向き直った。

「おかげさまで。そういう先輩たちこそ仲良く揃っての登校ですか?」

「校門で会ってしまったからね。無視して互いに並行で歩くのも可笑しな話だろう?」

 柔らかな笑みを浮かべたその表情を、龍二がぼうっと見つめている。

 今期の生徒会長が最強だと謳われているのは、この笑みに含まれた自然に見せかけているお願いに誰も逆らえないからだ。裏のある笑みだと分かっていても見惚れてしまう生徒が大半らしい。見惚れることがないのは、生徒会面子と僕を含めた数少ない生徒だけなんじゃないだろうか。

 龍二の典型的な反応を見ていた副会長、こと和意先輩と視線が合う。彼の面白がるような視線に、僕は溜め息をついた。時間も時間だし、そろそろ助け舟を出したほうがいいだろうな。

「龍二、早く行かないとノートを書き写す時間なくなるよ? いいの?」

「え……え、あ、そうだった! うわ、もうこんな時間かよっ」

 ノートという言葉は思った以上に効果的だった。我に返るなり時計を見た龍二は、つい先ほどまでの様子が嘘のように慌てだす。

「す、すみません、失礼します!」

 呆気に取られている二人へ挨拶をすると、彼は廊下を走り出した。一緒に動けなかった僕に「聡里も早くっ」と声をかけたかと思うと、近くの階段を駆け上っていく。

 勢いのある音が遠くなるのを聞きながら、僕はカバンを持ち直した。

「僕も行きます。……三年生はいいですね、一階の教室で」

「羨ましかったら追いつけよ。喜び勇んで迎え入れてやるぞ」

「その方法があるなら知りたいです。あ、でも同じ学年になると大変そうだからやめておいたほうがいいかもな」

 和意先輩に軽口を叩くと、僕は会長に会釈をしてから背を向ける。しかし一歩踏み出した瞬間、足が無意識のうちに止まってしまった。

 階段を下りたところに立つ人影が、同じようにこちらを見て固まっている。

「聡里?」

「聡里くん?」

 背後から聞こえた訝る声の二重奏。それが僕の金縛りを解いた。一回だけ深い息を吸い、何事もなかったかのように階段に向かって歩き出す。

 血液を送り出す心臓の音が、煩い。

 階段に近づくごとにそれはどんどん高鳴っている。

 カバンを胸に抱え、規則的に動く足元だけを見て、教室を目指す。

「…………」

 彼の前まで辿り着いたとき、何か話しかけられそうな空気が漂った。それに気づきながら、僕は速度を緩めない。それどころか更に早くなり、ついに階段を駆け上る。

「馬鹿、走るな……っ」

 背後から聞こえた馴染みのある声に、僕は少しだけスピードを落とした。

 ほんの一瞬だけ肩越しに視線を向けたら、こちらを見つめる不安そうな表情とぶつかる。

 見覚えのありすぎるそれに、僕は泣きたくなった。





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