運命への岐路 =9=
「静か、だよなぁ……」
呟いた言葉は物音のない空間に消えた。
壁にかかった時計に目をやれば、時刻はすでに正午を過ぎたところ。天気は生憎の空模様で、つい先ほど雨粒が落ちる音を聞いた。幸いなことに、この建物には人数を集めることのできる場所がある。今頃子供たちは外で遊ぶことを断念し、屋根のある場所で思う存分騒ぎ立てているだろう。
そこからこの部屋までは距離があるため、彼らの声は届かない。静まり返った場所に一人で居ることを、蒼は後悔し始めていた。
自分を振り返る時間ができてしまえば、考えるのは彼のことばかり。抱かれたときに感じた感触と熱とを思い出してしまう。
遊ぼうと誘われて、それを却下したのは保護者であるこの家の“おかあさん”だ。蒼の生活を知っている彼女は、夜中の帰宅に気づいていたらしい。彼女に休んでいなさいと言われてしまったら、子供たちは諦めるしかない。ここでは彼女の言葉は何よりも優先されるのだ。
『そんな顔色で無理をして倒れたら健康管理がなってないと思われるでしょう。それはあんたにとってマイナスでしかないわ。一度の失敗も許されないんだから』
高宮の影の部分に籍を置きその手足となって働くことは、精神と肉体とに疲労を抱えていては勤まらない。彼女の言葉に重みがあるのは、彼女もまた蒼と同じ立場を経験してきた人物だからだろう。
『疲れたなんて言ってる暇はあんたにないわよ』
高宮の組織で働くと決まったのは二年前。同席していた彼女は複雑そうな表情で蒼を見ていたが、蒼は迷うことなく頷いた。それが人との壁を作る生活だとしても厭わない。高宮で働くことは、蒼にとって希望していた未来だった。
それからの日々は高校生活と訓練との二重生活を送り、昨年末に初めて仕事を任された。とある会員バーに潜り、ある情報を収集すること。場合によっては、自分から客となる男に擦り寄ることも必要となる。淡々と告げる天野にも、何らかの感傷があったのだと思う。だが、それを拒む権利は天野にも蒼にもない。
素性を偽り潜入した店で目立たない程度に行動を起こす。役目を果たしかけた頃に、蒼は尚貴と出会った。何の運命の悪戯か、接点のない二人が急激に近づいたのもこのときだ。
「……尚貴さん」
名前を呼ぶだけで胸が苦しい。
深い溜息をつき身動ぎをした蒼は、あらぬところに疼痛を感じて眉を顰めた。重だるい身体を自分の両腕で抱けば、後悔という感情が押し寄せる。
素直になれば今とは違う状況に身をおいていたのだろうか。
彼との生活を望み、それが消えたことで安堵する自分がいる。
しかし、どんなに考えても尚貴と過ごす日々は蒼の未来と相容れない。今は傍にいれたとしてもいつかは綻ぶ時が来る。それを知りながらも少しでも長く彼と過ごしたかった。その希望も砂上の城のように脆く崩れてしまったけれど。
蒼の薄い唇に苦い笑みが浮かぶ。
どこまでも沈んでいきそうな思考を破ったのは、ドタバタと廊下を走る足音だった。
「蒼ちゃんっ、起きて!!」
ノックもせずに入ってきた子供を見て、蒼は表情を変える。タックルをするような勢いで飛びつかれ、蒼は咄嗟に腕を広げてその身体を受け止めた。微かにぐらついた蒼は、体勢を整えてから、彼の目を見つめて諭した。
「修平、人の部屋に入るときはノックが先だろう?」
「だって、おかあさんがすぐによんできなさいって言ったもん」
えへへと舌を出すその仕草は叱られないとわかっているからだろう。こつんと拳骨を軽く落として蒼は困ったように少年を見やる。
「呼んでるって何で?」
「蒼ちゃんにおきゃくさんだって。凌にいちゃんもいたよ」
「お客? 凌もいたって……」
高宮関係で何かあったのだろうか。
戸惑う蒼をよそに、修平はその手を引っ張り急かす。しっかりと繋がれた小さな手に導かれながらも、蒼の頭は考え事でいっぱいだ。
案内されたのは皆が応接室と呼ぶ場所で、蒼は複雑な表情でその扉を見つめた。ここは二年前のあの日、高宮の使者として天野と対峙した場所でもある。
五歳しか違わないのに一足先に大人となった彼は、どこか愁いを帯びていた。社会人としての疲れもあるだろうが、きっと蒼に宣告しなければならない自分の立場に悩んでいたのだろう。
それほど、彼は親身だったから。
軽い感傷に浸る蒼をよそに、修平は恐れることなく目前の重厚な扉をノックする。きちんと扉が開けられるのを待っていたところを見ると、ここに通されることに何らかの意味があると幼いながらに知っているのかもしれない。
中から顔を出したのはここに住む者から“おかあさん”と呼ばれる初老の女性だった。まずは修平の頭を撫でることで彼を労い、次いで蒼に視線を向ける。軽く頭を下げると、彼女はふと表情を和らげた。
「休んでいたところを申し訳ないけれど、蒼のお客さんよ。さ、修平は私と皆の所に戻りましょうね」
「俺も一緒に行きますよ」
聞き覚えのある声が彼女の言葉に続く。そちらを見やれば、僅かな隙間を塞ぐように凌が立っていた。
「凌……」
「まぁ凌さん、よろしいの?」
「ええ。ここで顔を見せておかないと後で薄情と言われてしまいますしね」
「皆喜ぶと思うわ。時間の許す限りいて頂戴」
にっこりと交わされる笑顔付きの会話に割り込めず、蒼は呆然とその成り行きを見守るしかない。気づけば二人の間で話は進み、彼女と修平が先に歩き出す。
後でね、と手を振る修平に頷いた凌は、改めて蒼を振り向いた。
「凌、あの……」
何をどう話しかければ良いのかわからず、思わず口ごもる。長い付き合いだというのに、彼を前にしてこんな事態になるとは想像もしていなかった。
彼は笑みを浮かべると、蒼の頭をその掌で軽く叩く。幼い子供するその仕草に、蒼は思わず口を尖らせた。だが、真摯な瞳で見つめられていることに気づき、上げかけた声は咽喉の奥に消える。
「あの人が、おまえを待っている」
静かに言い聞かせるような声音に、蒼の身体は大きく揺れた。縋るような視線を向けられ、凌は困ったやつだとばかりに苦笑を浮かべる。
「きちんと彼と話をしてこいよ」
「彼って……凌、まさか……」
「言いたいことを言っていい。おまえにはそれをする権利も義務もある―――そのことでとがめだてする者はいない」
「凌…………」
言いようのない思いが蒼の中で渦巻く。だが言葉にすることもできなくて、ただ凌を縋るように見つめた。その視線を受け、凌は小さく頷く。励ますように蒼の肩を叩くと二人の消えた方角へ歩き出した。
それを黙って見送った蒼は、自分が無意識に胸の前を掴んでいることに気がついた。がちがちに固まった身体から、余分な力を抜くように詰めていた息を吐き出す。
ここまで凌が彼を案内してきた。それが示すたった一つの道筋に気づき、蒼は心に湧きあがる感情を必死で押さえる。
凌が行動を起こしたのは、天野の言があったからだろう。彼は高宮の意志を遂行するものであり、時に天野を越えた権限を発揮する。逆に取れば、どれだけ天野が提言しようと彼が頷かなければそれまでとなる。
それでも、期待してはいけないと自分に言い聞かせる。なぜなら、彼が何のためにこの場所まで来たのかを自分の好いように解釈してしまいそうだからだ。
波立つそれを深呼吸することでやり過ごし、蒼はゆっくりと扉へと身体を向けた。僅かに開かれた隙間から見えるのは、大きな窓に向かって立つ後姿だけ。扉の外であったやり取りも聞こえていただろうに、微動だにしない彼に蒼は声をかけた。
「――――お待たせいたしました」
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