運命への岐路 =10=




「――――お待たせいたしました」

 努めて平淡な声を出した蒼は、扉がきちんと閉まるのを確認してから顔を上げた。まだ半日しか経ってないというのに、目の前にあるその後姿を何故か懐かしくさえ思う。

 その場から静かに見つめていると、ふいに彼が口を開いた。

「ずいぶん静かな場所だな。子供はそんなにいないのか?」

 まるで天気の話をしているような、ごく自然な声音。穏やかなそれに、蒼は一瞬彼が何を言っているのかを判断しかねた。

「あ……今日は雨で子供たちが離れた場所にいるから。晴れていたら庭に出て走り回ってるよ」

「おまえもそうだった?」

 ゆっくりと振り返る尚貴に、彼が全てを知らされたのだと気づく。それと同時に、彼のどことなくバツが悪そうな表情に小首を傾げた。それが夕べの行為に繋がっているのだと想像し、蒼はかっと頬を染める。それを誤魔化したくて、敢えて何でもない振りで会話を続けた。

「うん、そうだね。でも、僕がここに来たのは小学校に上がってからだから、この時間は学校に通っていたな」

 もう尚貴と視線を合わせることを恐れる必要はない。蒼が話せなかった内容を、凌が代わりに伝えたのだろうと予測できたから。

 ここにはいない人物を思い浮かべ、蒼は小さな笑みを浮かべる。

 今でも時折蘇る過去は、ここから程近い、母親と住んだ古い木造アパートと錆付いた鉄の階段で始まる。母親が仕事の時間は保育所・学童保育を兼ねるこの施設に預けられ、迎えに来た彼女と一緒に帰る。ただ、それが繰り返されるだけなのに、とても愛しい日々。

 思い出すだけで胸がほっこり温かくなる。だが、それも蒼の生きてきた半分の時間で終わってしまったけれど。

「……十歳になる前に母が亡くなって、僕はここに身を寄せた。何もかもが灰色に見えて、時間の流れさえ止まっていたんじゃないかと思う。その僕を投げ出すことなく傍にいてくれたのが義孝さんだった」

 反応のない自分に話し掛け、大人が呆れるほど辛抱強く蒼が動き出すのを待っていてくれた人。彼がいなかったら今頃自分はどうしていただろうか。

 その彼が高校卒業と同時に天野の家の養子となり、ここを出て行ったのは今から五年ほど前のこと。そのときに彼が高宮の組織に組み込まれることを知った。

「僕には一生かかっても返しきれないくらいの恩がある。義孝さんの役に立ちたい。子供ながらにそう思って、僕も高宮の組織に入ることを決意した」

 蒼が高宮への意思表示をしたのは中学を卒業する前のこと。

 自ら申請して上層部の進めるがままに、有名進学校へと入った。そこで出会ったのが凌である。彼が高宮の関係者であることを知ったのは偶然だったが、今では彼もまた蒼にとってかけがえのない存在だ。

 わき見をせずにひたすら目指した高宮への道。迷うことなく進んでいた蒼を惑わしたのは、今目の前にいる宮古尚貴という人物だった。

 静かに語る蒼を見守る優しい瞳に後押しされ、蒼はゆっくりと歩を進める。手を伸ばせば触れるという距離で立ち止まり、自分よりも高いところにある双眸を見上げた。

「―――貴方と出会ったあの店で、僕は初仕事をしていた。あれは、僕の今後を左右する大事な仕事だったんだよ」

「……俺が邪魔をしたけれどな」

 初めて割り込んできた低い声に、蒼は小さな笑みを口の端に浮かべる。

 あれは、果たして邪魔というのだろうか。情報を引き出すこともできない男に迫られ、どうやってあしらおうかと考えていたところに尚貴がやってきた。蒼に非がないよう男を追い払ってくれたこと自体、感謝してもいいくらいだろう。もっとも、その後の彼の行動に減点する必要もあるが。

 あれから二月。いろいろな事を経て、出した結論を蒼は口にする。

「僕は、これからもああいった仕事をしなければならない。―――貴方は関わるべき人ではない」

 尚貴は自分と違って脚光を浴びる世界に生きる人間なのだ。陰の世界で生き抜いていく蒼とは関わらないほうがいい。

「それが、おまえの答えか」

「うん……そうだよ」

 視線を反らすことなく告げれば、尚貴がひとつ溜息を落とす。

「それなら、俺の答えはこうだ」

 勢いよく伸びてきた手が蒼の肩を掴むと、抵抗する間もなく細い身体を引き寄せた。二人の間にあった隙間は埋め尽くされ、蒼は彼の腕の中に収まってしまう。

「………っ」

「はい、そうですか、と頷くわけないだろうが。大体、こんなのも避けられないで仕事していけるのか?」

 耳元にかかる吐息と僅かに香る煙草の匂いが、彼の近さを物語っている。

「ちょ……放……っ」

「やだね。放したら今度こそおまえを捕まえられなくなりそうだ」

「何言って……」

「二度と同じ失敗はできないからな」

 突然聞こえた真摯な科白に顔を上げた蒼は、自分を見下ろす相貌と出会った。それはこちらを問い詰めるでもなく、ただ蒼の言葉を引き出そうとする。

 まるで、心の奥まで覘かれてしまいそうな眼差しに、蒼の背筋が震えた。

「お前が俺のことを考えて結論を出すのは嬉しいが、どうせならもっと建設的な方向に進めてくれ。俺を引き込む、とかな」

 蒼の出した結論は尚貴の身を案じてのこと。だが、それはすでに無用の物と化している。

『では、関係者として貴方を「協力者」に任じさせていただきます。役割は貴方の周囲にある噂等をこちらにリークすること、こちらからの指示で働きかけをすること。場合によっては噂の渦中に入っていただくこともありますから、そのおつもりで』

『スパイみたいなもんだな』

『ある意味では。事によってはそれ以上の働きを望む場合もありますよ。その時は否応無く動いてくださいね』

 これで貴方は一生を高宮と無縁で過ごせなくなりました。そう言った凌の表情はどこか苦笑混じりで、だが一段と柔らかな表情を浮かべていた。秘密の事柄を共有する人物として認められたからだろうか。

 選択肢を与えたのは凌でも、選んだのは尚貴である。自ら起こした行動に後悔はしない。それが尚貴の持論だ。

 遠まわしな言葉に一瞬戸惑った蒼は、その意味に目を瞠り思わず尚貴の腕に手をかける。

「―――――まさか……まさか、貴方……」

「引き受けたよ。もう、契約も済ませた――――!?

「馬鹿っ!」

 勢い欲振り上げられた掌が尚貴の頬を打った。その衝撃を直接受けた尚貴を見上げてくるのは今にも泣き出しそうなほど潤んだ瞳。それは一度瞬くと、それを堪えるようにきつく眇められた。

「なんで、そんな馬鹿なことを……っ! もう二度と普通の生活はできないんだよ!?

 高宮の下に籍を置く。

 それはすなわち墓にまで高宮との繋がりを持ち、秘密をも抱え込むことを意味する。時には闇に手を染める必要も出てくるし、望まないことにだって手を伸ばさなくてはならなくなる。

「貴方は、僕と関わらなければ高宮の存在すら知らなくて済んだ人なのに……だから僕は……」

「そうだな。確かに知らないまま生きていく可能性もあった。だが、いつかは知った可能性もある」

 その声は興奮した蒼を諭すように静かに語る。

「可能性だけで言ったらそれこそ無限に広がる。そんな計り知れないことに意義はない。そもそも自分の予測範囲外のことに興味はないんだ」

 静かに滑り落ちた涙を指先で拭ってやる。震える唇に親指で触れ、尚貴はそのまま頬に掌を寄せた。

「きっかけは確かにおまえだ。だがな、高宮と関わると決めたのは俺だ。そのことについてはおまえに何も言わせない」

 だから、逃げるな。

 音にならなかった言葉を視線越しに聞き、蒼は無意識に唇へと歯を立てた。

 自分の出した結論が逃げだとは思わない。ただ、彼をこの世界に近づけたくなかっただけ。昨夜のことは契機になったが、自ら退こうと決意したことに変わりはない。

 ―――それをするなと彼は言う。

 蒼が作った距離をあっさりと縮め、できるだけ高くしたつもりの壁も予想外の手段で乗り越えてきてしまった。

 彼の胸に顔を押し付けると、その行為を迎え入れるように後頭部を撫でられた。布地越しに届く心音が僅かに速まっているような気がする。

 自分の音と重なり合うのを実感していた蒼は、そっと彼の腰に手を回してみた。躊躇いがちなそれを肯定するように、彼の腕もまた蒼を引き寄せる。

 言いたいことはたくさんあったけれど、口をついて出てきたのは一言だけだった。

「…………馬鹿」

 蒼の纏う空気が変わった、と尚貴は僅かに目を細める。今まで頑なに抱いてきた壁が薄らいだような、そんな手ごたえがある。

「ああ、おまえに関しちゃ馬鹿だよ。自分でもこれほどまでのめり込むとは思わなかった」

「……興味があるだけじゃなくて?」

 彼を頑なにさせたのは自分の一言だったらしい。問うてくる視線に、尚貴は彼が何に引っかかっていたのかを知る。

 自分への無意識の戒めが彼にも効いていたとは。これこそ小説にもならない滑稽な話だ。

 この反応を間接的に彼への答えと理解し、尚貴は先に口を開くのは自分のようだと覚悟を決める。

「興味があるからこそ、だな。後先考えずに動きたくなるほどおまえに惹かれてるよ」

 射抜くように真っ直ぐな瞳も、誰よりも人に気を使うその性格も。気づけば彼の姿を追うようになっていた。

「言っただろう? おまえは初めて側に置いておきたいと思った人間だと」

「尚貴さん……」

「やっと呼んだな」

 この意地っ張り。

 尚貴が呟いた言葉は重ねられた蒼の唇に封印された。慎重さ分の距離を背伸びで縮める彼に合わせ、尚貴は少しだけ身を屈める。

 ゆっくりと離れたそれはすぐに角度を変えて温もりを移し、お互いの出方を窺う。焦れた蒼が彼の胸元へ手をかければ、僅かに笑った唇が深いキスを仕掛けてきた。

 それでも、場所が場所だけに互いの理性が打ち勝つ。

 名残惜しげに離されたそれにもう一度だけ押し当てると、尚貴が改めて蒼の身体を抱きこむ。耳元で落とされた溜息が彼の心中を語っているようで、蒼は僅かに身体を強張らせた。

 連鎖的に今の今まで意識をしていなかった疼痛が感じられ、篭り始めた熱を逃がすように息を吐き出す。

「―――――…………」

「え?」

 尚貴の言葉が聞き取れなくて問うように見上げれば、どことなく照れたような雰囲気の彼が顔を背けていた。

「だから…………ああ、もういい、帰るぞ」

 苛立ちを隠さず自分の髪をかき上げると、尚貴は蒼から腕を離した。そして蒼を促すような仕草をしたかと思うと扉のほうへと足を向ける。

 その動作に面食らったのは蒼のほうだ。「帰る」の意味があの部屋を示していることを瞬時に知り嬉しく思う反面、それはできないと冷静な自身が止める。これ以上あの部屋にいることは彼に色々と迷惑をかけることになる。彼が協力者になったからといっても、関係者と協力者が同じ屋根の下に住んでいて良いはずがない。

「でも……」

 言いよどむ蒼に気づき、尚貴は足を止めて振り返る。蒼が何に躓いたのかを悟ったのだろう、彼は実にあっさりとその障害を取り除いてしまった。

「おまえ、今月中にここを出ることになっているそうだな? だったら俺のところに来ても問題ないだろう。二人から許可も取ってある」

「二人って……」

 ここで母親代わりをする“おかあさん”と、弟分とともに姿を消した同い年の少年の姿を思い起こす。

 高宮関係の仕事につくと決まった時点で、蒼の生活拠点は高宮が容易をする手はずとなっていた。彼が許可するというのであるなら、高宮サイドとしては何も言及しないということだろう。

 あとは蒼の心一つで決まる。これは凌の企みだろうか。

 逸る心を抑えながら、蒼は眉を顰めてみせた。

「…………人を抜きにして話し合ってたわけ?」

「敵を攻めるときは外堀から埋めていくのが常套手段ってもんだろ。言っておくがアルバイトとしては雇うつもりはないぞ。衣食住は全て面倒見てやるけれどな」

 契約ではない生活をしよう。

 言外に含まれた彼の意思を読み取り、蒼はきつく目を瞑る。

 どうする、と尚貴が改めて問う前に彼の背中に抱きついた。前に回した指が大きな掌に包まれる。

「そんなの、いらないっ」

 面倒を見てもらわなくていい。

 彼に面倒を見てほしいわけではない。

 彼の側に居たいのは自分のほうだ。

 思い通りの言葉を紡げない自分の口が悔しい。悔しさが自分の指先に宿るれると、彼が数度その指を叩いた。あやすような仕草に顔を上げると、穏やかな瞳と視線がぶつかる。

 ―――わかっている。

 言葉にできない不器用さを容認されているようで、なんだか嬉しいような悔しいような複雑な気分だ。

 それでも、悪い気はしない。

 ゆっくりと瞳を閉じた蒼は、目前の頼れる背中にもたれかかる。

 二人分の呼吸音と鼓動音が重なる部屋に、そっと薄日が差し込んでいた。

 

 

 


   NOVEL  


 

 

 

 





 

 お ま け 

 

 

 

「ところでおまえ、結局何歳なんだ?」

「今月で卒業だから十八にはなってるけど……なんでそんなこと訊くの?」

「いや、秋津と同い年なんだろう? それにしちゃおまえのほうが年下に見える……痛っ」

「凌を基準で考えないでよ。凌は大人に揉まれてきたから、処世術には長けてるし」

「処世術ねぇ……どっちかといえば大人に対する免疫があるというべきだろうな。まぁ天野みたいな厄介な人間の上に立ってるんだし、それくらいないと勤まらないか」

「厄介って、どういう意味?」

「癖があると言ってもいいぞ。自分の中で処理したことを第一に行動する人間が御しやすいはずもないだろ。そんな人間の集まりで頂点に立つなんてぞっとするね」

「なんだ、そのうちの一人に尚貴さん含まれてるの、気づいてないの?」

「―――――…………前言撤回」

 






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