運命への岐路 =7=
スコールのように降りかかる水が、頭部から足首までを容赦なく濡らしていく。
熱めのシャワーは、自己嫌悪に陥る自分を少しだけ冷静にさせた。
「――――――……くそっ」
それでも口からついて出るのは舌打ちに似た言葉だけで、尚貴は情けなさに硬く目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、ベッドで寝ているだろう蒼の姿だ。シャワーを浴びる前に彼の身体を軽く拭いてきたが、彼は大人しくされるがままだった。自由にした手で抵抗するでもなく、身体を捩り嫌がる素振りさえもない。まるで自我を持たない人形のように、尚貴の為すことに反応を示さなかった。
それも当然か、と尚貴は一人自嘲の笑みを滲ませる。
両手首を縛り上げ、腕を固定することで彼の自由奪った。
嫌がる言葉も態度も無視して、あの白い身体を侵略した。
恐怖に震える躰を抱きしめてやることしかできなかった。
―――あんな風に、無理矢理手を出すつもりはなかった。
尚貴は自分の掌をじっと見つめる。
彼の両手首を縛り、更にその上から押さえ続けた。尚貴の熱を押し込んだときの、縋るように絡められた指の感触が蘇る。
ろくな言葉も交わさず、理由も話さず、欲望のままに突っ走った行為。それを彼はどんな思いで受け止めるのだろうか。
言葉のない、態度だけで示された拒絶。
それが見えない槍となって尚貴の心臓を突き刺していた。
「……最悪だな」
店に行ったのが何よりも失敗だったと思う。
自分の中で渦巻く感情が静まるまで、蒼との距離をとろうとしていた。同伴者が「行きたい」と言い出さなければ、今夜あの店に顔を出すこともないはずだった。
もちろん、店に入るのを拒むこともできた。それをできなかったのは、尚貴の心の底にある願望に負けたからである。
特定の視線を感じながらもそれを無視し続けた時間。彼の意識を自分に向かせているという優越感と、薄らと放たれていた彼の感情を裏付ける安堵感が綯交ぜになった。
同伴者に「顔が緩んでいる」と呆れられても構わないほど、あのときの尚貴は浮かれていたのだ。
しかし、蒼の反応が見たいという子供じみた企みは、尚貴に予想外のしっぺ返しを食らわせることになる。
蒼が人影について行く姿を視界の端に止め、尚貴は柳眉を潜めた。暗がりで判断しかねるが、どことなく蒼を従わせていた雰囲気を感じる。思わず立ち上がり、訝る同伴者を残して後を追うことにした。
手洗い場の入り口自体が作り出す死角のスペースに二人の姿を認め、そっと近づいた尚貴はそこで目にした光景に言葉を失う。
狭い空間で向き合う二人が緊迫した空気の中にいることはわかる。だが、尚貴を狼狽させたのは、伸ばされた手を避けることもなく素直に甘受する蒼の表情だった。
子供のように拗ねた表情で正面の相手を見つめ、髪をかき混ぜるように大雑把に動かされる手を拒まない。そして何事かを囁かれた彼は、一瞬の間を置いて泣き笑いの感情をそこに浮かべた。
尚貴と対峙するときは大人ぶった態度しか見せない蒼が、尚貴に見せたことのない態度と表情で接していた。
それが、尚貴の心中をかき乱す。
ふと浮かんだのが天野だ。だが彼の場合、未だ明かされない蒼の過去を把握しているし、それを見守る立場にもあるからだと尚貴自身を納得させるだけの材料がある。
だが、今蒼の前にいるのは店の人間というだけの存在なはずだ。
親密な空気が二人の間にあると感じた。それが尚貴の焦りに拍車をかける。
踵を返した尚貴は、不機嫌な様子を隠すことなく店を出ると同伴者に告げた。そして彼女をタクシーに押し込むと、以前一度だけ通ったことのある裏道へと足を向け―――そして力にモノを言わせて抱いた。
こちらにどんな思惑があろうと、蒼にとっては望まない行為でしかない。これで嫌われようと、尚貴にそれを止める権利はないのだ。
どんっと湿り気を帯びた壁に向けて、尚貴は拳を打ち込む。
「……ガキか、俺は」
欲しい欲しいと自分の感情に忠実で、その場のことしか見えていない。
後悔がないといったら嘘になる。
それでも、それ以上に蒼が欲しかった。
自分が相手の抱く想いを無視してまで自己満足することだけを望む、想像力の働かない人間だったなんて、つい先ほどまで気がつかなかった。
らしくない自分がいる。
だが、それも悪くない。
「……ホント、蒼さまさまだよ」
その恩人に対し、我を通してしまった後だけれども。
ふぅ、と声を意図的に溜息とともに出してみる。全身から力を抜くような長い呼吸の後、尚貴は頭のスイッチを切り替えた。
尚貴が蒼に対してした行為は傷害だし、何よりも彼自身を裏切る行為でもある。
そして、蒼を抱きたいと思っていたのも事実だ。この気持ちを免罪符にするつもりはないが、蒼にどれだけ詰られようと、尚貴はこれ以上自分のスタンスを曲げるつもりはない。
閉ざされ、次の瞬間に開かれた瞳は、揺るぎない意志を浮かべていた。
一度決意をしてしまえば、過去の憂いから目を逸らすことができる。それがどんなに都合のいい話であっても、それを受け止めてしまえばいい。
勢いよく流していたシャワーを止め、浴室を後にする。バスローブを纏い、扉を開けた尚貴は息を呑んだ。ベッドで休んでいたはずの蒼がいないのだ。
「な……あいつ―――っ」
咄嗟にカードキーを掴んで共同廊下へと飛び出すが、当然のことながら蒼の姿はない。
追いかけようとして、尚貴はその場で立ち止まった。蒼が出て行ったのは、間違いなく尚貴がシャワーを浴びている間だ。蒼がこの部屋を出て行ってからどれほどの時間が経ったのかわからないし、そもそもバスローブ姿で外に出るのはまずい。
また、前回と違って蒼は自由に動けるだけの財力を持っている。ホテルから歩かなくとも、フロントの前を通りタクシー乗り場に向かえば済む話だ。
それに彼の向かう先を推測することさえできない。蒼のことを知らないという事実をこんな形で思い知らされ、尚貴は苦い笑みを浮かべる。
だが、それも一瞬のことだ。一度閉じたオートロックの扉を開け、尚貴は迷うことなくデスクへと向かった。
確かに尚貴は彼の背景を知らない。それでも、尚貴と蒼を結ぶ存在はある。
置きっぱなしにされていた携帯電話を手にとると、数ある登録先から一つを探しだした。プライヴェート用の番号を選択し、通話ボタンを押す。
コール音が耳元で続き、やがて留守番電話に繋がる。それを無視し繰り返すこと数分、ふいに単調な音が途切れた。
「――――――何時だと思ってんだ」
僅かに掠れた声で、第一声が発せられる。付き合いは短いくせに、その声はやけに耳慣れてしまった。
「日付が変わったばかりで、寝るにはまだ早いだろう。それとも、疲れるようなことでもしていたのか?」
「……自由業と会社員を同じにするなよ」
ごそごそと雑音が入ったのは、彼が身動きしたからだろう。ここで他の人間の声が聞こえてきたら、それはそれで面白かったのにな。つい先ほどまで慌てふためいていたという事実を忘れ、尚貴は不謹慎なことを考えてしまう。
ふいに金属のぶつかり合う音が耳元で響いた。続いて聞こえた溜息のような息遣いで、彼が煙草に火をつけたことを知る。
「―――で、何の用だ」
「蒼がいなくなった。おまえならあいつの向かう場所を知っているだろう?」
そう、悔しいが、残された道は天野しか知らない。彼だけが、二人を結ぶ中間地点に立っている。
要点のみを伝えた尚貴に対して、天野の反応はかなり冷たかった。
「…………切るぞ」
「おいっ!」
「夜中に人を起こしておいて、蒼の居場所を教えろだと? おまえら、一月以上一緒にいて何をしてたんだよ」
話をする時間は十分あっただろう。
隠そうとしない呆れた口調に、尚貴はむっとして反論する。
「時間は確かにあった。だがな、答える側にその気がなければ聞き出せないんだよ」
「聞き出し方に問題は?」
「質問する度にはぐらかされる。おまけに『義孝さんの言う通り』で押し切られるんだ。それ以上俺にどうやって聞けと?」
「―――蒼がそう言ってたのか?」
「他に誰が言うんだよ」
話しているうちにあの時の苛立ちが蘇ってくる。蒼の口から天野の名が出てくるたびに、彼らの絆が強いことを見せつけられているような気がした。それは蒼にとって存在して当たり前のことなのだろう。
躍起になって聞き出そうとしたこともある。だが、むきになる自分と交わし続ける蒼との温度差を知り、そして空しくなった。
それでも、尚貴の中にある意思は一つだ。
「確かに、あいつのバックグラウンド……おまえのとの関わりとかに興味がないと言ったら嘘になる。出会いが出会いだしな。だからと言って、どうしても全てを知りたいわけじゃない。いつかは話してもいいと自分で判断した時に話してくれれば構わなかったんだ」
「それを蒼に伝えたのか?」
「……言えるわけ、ないだろう」
淡々とした声に、尚貴は思わず唸る。
蒼を覆う見えない壁は、関係が変わってからも続いていた。いや、むしろ厚くなった気さえする。
彼は、何を思って尚貴の提案を受け入れたのだろうか。
蒼に対する疑問は何時の間にか膨れ上がって、そして諦めにも似た感を抱いた。
独り相撲を取り続ける気はない。その一方で、邪な思いが彼とはなれることを良しとしない。中途半端なプライドが、それ以上どちらかに傾くことを拒んでいる。
情けなさと苛立ちとに携帯電話を持つ手が震えた。
二人の間に暫しの無言が舞い降りる。その沈黙を破ったのは、天野の深い深い溜息だった。
「明日……いや、今日だな。時間はあるか?」
「そりゃ都合はつけられるが……」
「これから言う場所に車以外の手段で来てくれ」
続いて提示された場所と時間を手近な紙に慌てて書き取る。
これは、彼自身が動いてくれるということだろうか。
疑問を口にすれば、それは無理だと返された。
「残念ながら今は出張中で動けないんだ。代理を寄越すから、その相手から全部直接聞いてくれ。ついでに蒼のところまで案内するよう言っておく」
では明日と続けられた言葉に、尚貴は慌てて止める。
「おい、俺はその相手を知らないんだぞ!」
「向こうがあんたを知ってる。見つけ出されるまで動かなければ問題ない」
時間に遅れるなよ、と念を押され、今度こそ完全に通話が途切れてしまう。
規則正しい不通音を流す携帯電話を、尚貴は呆然と見やることしかできなかった。
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