運命への岐路 =5=



 定時を迎えた蒼は、一人閑散とした控え室にいた。制服を着替え、後は帰るだけ。それなのに蒼の足は動こうとしない。

 寄りかかるように蒼はロッカーへ額をつける。ひんやりとしたその冷たさが蒼の頭を覚ましてくれればいいのに、とできもしないことを思う。

 表情をいつも以上に取り繕って働いたこの数時間は、誰とどんな会話をしたのかも覚えていない。愛想よく振舞ってはいたものの、客に対して失礼な話だ。

 そして、高宮の下で働こうとする者としては情けないの一言につきる。

 どんな相手と話そうと、意識は尚貴のほうへ向かってしまう。気にしないと自身に言い聞かせても、視界に彼が留まるように行動するなんて滑稽な話だ。

「……尚貴さん」

 人がいなければ呟けるこの名前も、彼を前に呼んだことがない。

 呼んで、返事があって。その普通の生活に憧れながらも、蒼は頑なにそうしようとは思わなかった。

 いつかは去っていく人間だから。

 それは彼のことでもあり、自分のことでもある。彼は興味を失ったが最後、蒼を遠ざけようとするだろうし、蒼は高宮の下で働く身分だ。たとえ彼の興味を惹き続けられたとしても、蒼がその場に留まっていられるとは限らない。

 呼び呼ばれることに慣れてしまえば離れるのが難しくなってしまう。

 だから、敢えて彼の名を口にすることはしなかった。会話をしていても主語を抜き、二人称で呼んだ。

 それを後悔する日がこんなに早く訪れるなんて思ってもいなかったけれど。

 苦い笑みが蒼の唇を歪める。

 蒼がこの店で働いていることを彼は知っている。その上で彼は女性同伴で客としてやってきた。そのことに何の意図も含まれないと考えるのはあまりにも初心な発想だろう。

 脳裏に浮かぶ人物は今なにをしているのだろう。エスコートしていた女性と懇ろに過ごしているのだろうか。

 いつかは目撃するだろう、と覚悟はしていた。あれだけの才能と容姿をもつ男が、いつまでも一人で夜を過ごすはずがないと。だが、それを見たときの衝撃がこんなにあるとは思いもしなかった。

 仲睦まじく歩くその姿を想像し、蒼はきりきりと痛むその胸を押さえる。

 かつて一度だけ蒼に触れた唇が、あの女性のそれに重なるのだろうか。

 あの力強い腕が細い身体を抱きしめ、腰に回され、そして―――。

 男と女として、その間にある行為を知らないとは言わない。蒼自身その経験がないとも。それなのに、想像するだけで胸が痛み、目頭が熱くなる。

 堪える間もなくそれは頬を滑り落ちた。あとから止めようもなく溢れるそれに、蒼は唇を噛み締める。

「本当に、ばかだ」

 手の甲で頬を拭い、蒼は一つだけ溜息を落とす。

 いつのまにか自分の抱いていた感情が憧れから変わっていた。

 それを認めることができなくて、たった一瞬でも満たされてしまえばそれを失うのが恐くて、頑なに彼の視線を反らし続けた。

 それを自分でも気づかない振りをしてた罰があたったのだろう。

 彼の興味は、蒼が満足させる前に違う方向へと向いてしまった。

 もし、蒼自身が彼の興味を満足させていたら。そうしたら、今のような思いをしなくて済んだのだろうか。

 過ぎった思いに、蒼は自嘲の笑みを浮かべる。

 もしも。

 していたら。

 済んだことを嘆き、パラレルな現実を期待する言葉は、想像するほどに今の自分を陥れるものだ。どれだけ想像しようとそれは具現化をしないし、羨望するその世界に一歩でも踏み込めるわけでもない。。

 何をどうしようと、蒼がいつまでも尚貴の側にいられたはずはないのだ。ずるずると側にいれば余計なことまで望んでしまう。蒼自身で決着できなかっただろうことを、尚貴が引導を渡した。

「……それで、いい」

 呟きとともに、再びこぼれる一粒の涙。それが床に落ち、弾け飛ぶのを蒼はと見届けた。そして気持ちを入れ替えるために深呼吸をする。上げた顔は先ほどまでの気弱な表情はすっかりなりを潜めていた。

 時計を見れば、終業時刻からすでに三十分近くが経過をしている。そろそろ誰かが休憩に入るかもしれない。蒼は慌てて荷物をまとめる。

 赤い目をして控え室にいつまでも籠もっていたら、仕事で嫌なことがあって泣いていたかと思われてしまうだろう。それに同僚にこんな泣き顔を見られるのは御免だ。

 こっそりと通路を進み誰にもすれ違わないまま裏口から出た蒼は、その場で足を止めた。明かりの少ない細い路地の途中、見慣れてしまったシルエットが浮かび上がる。

 ずいぶん前に会計をして出て行ったはずの彼がどうしてここにいるのだろう。煙草の火が唯一の暖であるかのように、そこだけがやけに目に付く。

「…………何、してるの」

 咽喉の奥からやっと絞り出した声が震えているのに、彼は気づいただろうか。

 蒼の問いかけに対する答えはない。彼の指から煙草が落とされ、その赤い光が地面へと落下していくのを蒼は目で追う。その一瞬で彼は蒼に近づき、力強い指で蒼の二の腕を掴んだ。

「な…………っ」

「ついて来い」

 有無を言わせず尚貴はそのまま大通りへと歩いていく。

 慌てたのは蒼だ。一言の説明もなく連行する尚貴の行為にまず頭がついていかなかった。

 尚貴が目の前に現れた時点で蒼の思考はフリーズしかけている。おまけに右手で右腕を掴まれているため、横歩き状態で引きずられるようについていかねばならない。

「ちょ、ちょっと……痛いってば!!

 痛みで我に返った蒼はその場で足を踏ん張り、掴む指を振り払おうとする。しかし、彼は一瞬足を止め、睨みつける蒼を一瞥しただけだった。

 その視線にぞくりと背筋が震える。

 どちらかといえば喜怒哀楽の激しい尚貴だが、その瞳は今までに見たことがない。

 再び足を進める尚貴を包む空気が一段と冷え込んだ気がする。話し掛けるな、という無言のオーラが蒼の口から言葉を奪っていた。

 その一方で、蒼を捕らえる指の力がますます強くなる。コートを着ていなければ間違いなく痣になっただろう。それほどまでに蒼を逃がさないようにする尚貴の心理が読めない。

 大通りに出れば人目も出てくるし、尚貴も少しは体面を整えるだろう。いささか気楽に考えた蒼だが、この予測は大きく外れることになる。

 人が溢れかえる場所ではそれぞれが互いしか視界に入れず、ぶつかりでもしない限り他人を振り返ることはない。一応は歩調が緩められたものの、尚貴は未だに蒼に対して言葉をかけようとしない。

 ようやく尚貴の足が止まったのは、これから商売時間である深夜タクシーを捕まえたときだった。

 後部座席の扉が開けられると、放り込むように蒼を押し込む。その拍子に肩が逆側の扉にぶつかり、蒼は眉を顰めた。

 いい加減黙っているのも飽きたし、大人しくついて行く義務は蒼にはない。文句の一つでも言ってやろうと口を開いた瞬間、それを遮るように尚貴が運転手に行き先を告げた。それに呼応して車が動き出してしまえば、蒼は逃げ場を失ってしまう。

 第三者のいる前で揉め事は起こしたくない。それが二度と会うことのない運転手の前だとしても。

 咽喉元まで出かかった言葉を飲み込み、蒼は深い深い溜息をついた。

 あまりにも傍若無人な振る舞いに蒼は何をどう言えば良いのかわからなくなった、というのが今の正直な気持ちだ。

 だいたい、彼はあの女性と一緒にいるはずではなかったのか。

 蒼を迎えに来たら来たで何の説明もなく人を引っ張り、挙句の果てにはタクシーに押し込むなんて、何を考えているのだろうか。

 問い掛けるような視線に気づいているはずなのに、尚貴は目蓋を上げようとはしない。

 話は全て後だ。

 そう意思表示をするように、尚貴は背凭れに寄りかかり腕を組む。瞳は硬く閉じられて蒼の存在を忘れたかのようにぴくりとも動かない。

 思い出したように右腕が痺れを訴える。蒼は疼く場所に手をやり、視線を窓の外へと移した。





   NOVEL   





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送