運命への岐路 =4=



「いらっしゃいませ」

 レジ近くで作業をしていた蒼は、扉を開けて入ってきた客に笑みを向けた。人数を確認し、それに相応しいテーブルへと彼らを案内する。

 夕食が終わったところで食後の一杯でも、という時刻はバーの稼ぎ時だ。まだ埋まるほどの客は入っていないがそろそろ混みだすだろう。

 いつもなら混雑に備えた心構えをするのだが、今日はそれも必要ない。むしろ早く人が殺到してくれないかと待ち望んでいた。

 そうなれば少なくとも動いている間は余計なことを考えなくて済むから。

 受けた注文を厨房へと伝えた蒼は、誰の視線もないことを確認した上で小さな溜息をついた。余計なこと、と呟いたことに苦い笑みが浮ぶ。

 尚貴があの部屋からいなくなって今日で五日が経つ。その日の食材を買って行った蒼を迎えたのは『出かける。しばらく戻らない』と簡潔に書かれた置手紙だった。

 しばらくの間、蒼は残された紙を呆然と見つめた。

 よほど急ぎの用でもない限り、尚貴は出かけるときは必ず前もって予告をしていたし、唐突に出かけたとしても夜には戻ってくる。それを当たり前に思っていただけに、蒼の受けた衝撃は大きい。

 いつまでといった情報は一切なく、素気ないの一言に尽きる。

 何よりも『戻らない』という一言が蒼の心を跳ねさせた。

 ―――何か、したかな?

 浮かんだのは、自分が気づかないうちにしていただろう失態だ。だが、尚貴は気に入らないことをされた場合、きちんと口に出すタイプの人間である。それとも、注意をするのが嫌になるほどの何かを、尚貴にしていたのだろうか。

 考えれば考えるほど底なしの沼に嵌るような感覚に陥る。

「ソウ、八番テーブルのオーダー分が……ソウ?」

 怪訝そうな声に蒼は我に返る。

 声の主に謝り、差し出されていたカクテルグラスを受け取ると、フロアへと足を踏み出した。

 目的の場所へそれを置くと、ついでに他のオーダーを拾うべく店内を泳ぐように歩く。

 今は家ではなく、仕事中なのだ。余計なことを考える時間はない、と自分に言い聞かせるのは何度目だろうと考えてながら。

 扉付近まで周ったそのとき、さっと冷気が店内に入り込んできた。

 新規の客だろうと視線をそちらに向けた蒼は、入ってきた一組の男女に呆然とした。

 照明の落とされた店内で、しかも離れた場所からでも誰だかわかってしまうほど見慣れてしまった相手。

 クローク係りに彼らがコート等を預ける間も会話が続いいるのだろう、女性は肩を揺らすと、甘えるように男へと腕を絡める。それを何の抵抗もなく受け止める尚貴の姿に、蒼の胸は鉛を詰め込まれたかのように重くなった。

 どうして、と声にならない言葉を呟いた唇は震えている。

 どこかに取材に行っているのだろうという考えは安易だったのか。

 凍りついたように動かない蒼に彼は気づく。いや、気づいたはずなのに彼は何のリアクションもしなかった。まるでたまたま道ですれ違った人物と視線が合ったかのように、彼の表情は何も変わらない。

 初めて見るその表情に、蒼は心臓を鷲?みされたような錯覚を覚えた。

 ―――痛い。

 無意識に胸に手をやった蒼は、案内係として指名される前に身体ごと顔を反らした。そして受けていた注文を厨房へ伝えるため、と自分に言い訳をして足を必死に動かす。

 背中に特定の視線を感じる気がするのは、自意識過剰だろう。

「顔色悪いぞ? 休憩してくるか?」

「……いえ、平気です。それよりもオーダーをお願いします」

 同じアルバイト仲間が声をかけてくる。それに蒼は首を振って答えた。

 心配されるは嬉しいが、それでは足を引っ張るだけの人間になってしまう。役に立たない、といわれるのが何よりも堪える。

 意志ある瞳で訴えれば、彼は納得してくれたようだ。蒼から紙を受け取り、自分の持ち場へと戻っていく。それを見送っていた蒼は、近寄ってきた人物に顔を引き攣らせた。

 そこには静かに微笑むチーフの姿がある。

「ソウ」

「……はい」

 引き攣っていた表情を何とか取り繕うが、彼にはしっかりと見られたことだろう。それでも、蒼は表面上何の変化もなかったように振舞う必要があった。

 促されるまま厨房から離れ、奥まった影の濃い場所へと移動する。店内の死角的なここは手洗い場に近いものの、利用する客でさえ意識しないだろう空間である。

「さて、と」

 振り返った彼の表情はいつになく硬く、蒼は神妙な態度で続く言葉を待った。

「何を言いたいか、わかるな?」

「―――はい」

 彼が指摘するそれは、蒼の従業員としての態度だ。先日の体調不良は健康管理能力の不足を示しているし、先ほどは自分の置かれた状況を一瞬とはいえ頭から消し去ってしまった。他にも細々としたこともあり、表立ったミスはしていないが、今の自分は注意力が散漫すぎる。

「預かってる身としては、俺も甘い顔はできない。特におまえは、な」

「……わかっています」

 この店に勤めると決意したのは蒼でも、そう采配したのは天野である。高宮にとっての利益を生むよう蒼を教育する場として、彼がここを選んだ。

 もちろん、チーフである彼、持永もまた高宮の関係者である。

 そう、ここにいる理由は金銭稼ぎのアルバイトではない。いずれ高宮の手足となるべく研修を受けるのが目的なのだ。そのお目付け役がチーフという肩書きを持つ彼というわけだ。

 接客業としてのマナー等を身につけるのなら、早いうちから肌で感じたほうが現場で動きやすい。また、客層もそれなりに選別されていれば客だけでなく人間を感覚で識別できるようになる。ついでに店の仕組みを覚えてしまえば、どこの店に回されたとしてもやっていける。

 高宮の目的通り、蒼は義務教育が終わった直後からこの世界を知り始めた。その働きを認められ、今は謂わばその応用へと進んでいる最中である。

 それがどうだろう。蓋を開けてみれば上の空、自分の立場を忘れる振る舞い―――これでは到底高宮の期待に応えることはできない。

 どんな理由であれ、蒼は自分の存在意義を意識の片隅に止めておく必要があるというのに。

 無意識に唇を噛み締めると、それを咎めるように触れるものがあった。頬に当てられた掌に促されるまま俯かせていた顔を上げると、彼が苦笑としかいいようのない表情を浮かべている。

「おまえは察しがいい。だが、それは時々仇になってるみたいだな」

「持永さん……?」

「周りを観察する目は今まで預かったやつらの中でもマシなほうだ。周りとの折衝もな。だが、おまえは自分の抱えたものを外に出す癖がある」

「……ポーカーフェイスができないってことですか?」

「いや、客や同僚に対してはほぼできている。おまえは自分と深く関わりのない人間に対しては壁を築きあげてるからな」

 それなら、何に対して自分は指摘された癖をみせているというのか。

 眉間に皺を寄せる蒼に、彼は溜息をついた。

「おまえは目の前に人間がいれば表情を繕うことができる。接客をしている間はいいんだ。だが、客や話し相手から距離を置いた時に自分の内の何かを顔に表しやすい。それは隙を生むことになる」

「隙……」

 告げられた欠点を蒼は口の中で小さく呟く。

 誰もが持つものでも、蒼にとってそれは最大の弱点ともなりうる。

「あまり個人的なことまで口を出す気はないんだが……原因はさっきの客だな?」

 彼もまた蒼を観察していたのだろう。店にいる間は誰よりも蒼に目を光らせなくてはならない立場なのだから、気づいて当然なのかもしれない。

 蒼は躊躇った後ではっきりと頷いた。口先だけの誤魔化しも、これまでの態度が無意味にする。だとしたら、ここで否定するのは無駄なことだ。

 個人的な問題も解決できない人間だと思われるだろうか。

 彼の下す評価は蒼のこれからを左右する。

 世間的に考えれば未成年でも、蒼は自分の立場を理解しているつもりだ。こんなところで胡座をかいて甘やかされていては、いつまでたっても自分の足で立つことなどできやしない。

 胡麻を擦るつもりはないが、それでもマイナスになることは避けたい。

 蒼の緊張が伝わったのか、彼もまた神妙な表情を作る。やがて、身体を硬くして言葉を待つ蒼の肩を宥めるように叩いた。

「誰だって何らかのトラブルを抱えるものだ。それと折り合いをつけながら生活しているしな。それを顔に出す出さないはその本人の力量だろう。そして、おまえは力量以上にコントロールをする必要があるはずだ。プライベートを仕事にまで持ち込むのはいい顔できない」

「…………はい」

「あまりにもその期間が長いと上に報告する必要がある」

 それが俺の仕事だと続けられて、蒼は項垂れる。頭で理解していても、その一言は今の蒼にとって何よりも重い。

 だからな、と続いた声に蒼は顔を上げる。見下ろすその視線は縮こまった蒼を後押しする穏やかなものだった。

「とっととケリをつけて来い。おまえはうちで必要な戦力だからな」





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