運命への岐路 =3=
仕事が明けた瞬間、尚貴は大概ベッドへと直行することが多い。それは直前になると睡眠時間を削り、締め切り前夜ともなると徹夜で原稿を書き上げるからだ。
今回の仕事も似たようなスケジュールで敢行したため、睡眠不足ではある。だが、不思議と睡魔が襲い掛かってこない。否、眠気よりも尚貴を支配するものがあるというべきか。
リビングのソファで煙草をふかす。気分転換というよりはあるから吸う、といった感じで嗜好品という意味からは程遠い。一人で過ごす時間のバックミュージックは溜まりに溜まった留守番電話のメッセージだ。
原稿から手が離れた瞬間、開放感よりも先に尚貴の頭を悩ませたことがあった。それは蒼との顔を合わせる時間が増えるという現実だ。
尚貴が自身の感情をほぼ認識してからすでに半月以上。以前の尚貴では考えられないほど後手に後手にとまわっている。
そもそも、こうして手を出しかねている状態は未だかつてない経験したことがない。
自分から動き出すよりも先に寄ってくる人間のほうが多く、尚貴自ら動く必要がなかったせいもあるだろう。
これが言い寄ってきた相手ならば、相手が望む通りに手を出してやればいい。そして相手の気持ちが重くなればそこで終わりだ。
思いを伝えることではなく、どこまで駆け引きを楽しめるか。夜の街で必要なのはそれだけだ。個人的なことを聞き出す、自分の思いを伝えるなんて基本的なことはすっかり記憶の最中に葬り去られている。
おかげで蒼に対してどう動くべきなのか、それが掴めずにこうして悩む時間が増えるばかりだ。
おまけに蒼をアルバイトとして雇って以来、徐々に尚貴の胸中は複雑な感情を抱えている。
住所はもちろんのこと、天野やあの時迎えに来た凌という名の青年との関係、そして高宮と蒼をつなぐ「義務」の意味も、依然謎のままである。
別に彼の育ってきた環境に拘るつもりはない。だが、彼に話してもらえない塊の存在を知っているということというのは心に引っかかるものだ。
口を割らせることはおそらくできるだろう。ただし、それをしたが最後、彼は尚貴の元から離れていくに違いない。
強制されたのではなく彼から口を開いて欲しいと思うからこそ、こうして距離を測り続けているが、その一方で、はぐらかされるばかりのそれに、尚貴はいつしか諦めに似た感情を抱きつつあった。
今では後者の想いのほうが強い。初めの頃は蒼との繋がりを保つことばかりに気をとられていたが、今となっては訝る思いが尚貴を占めはじめている。
彼は、結局尚貴に話すつもりはないのではないか。
彼自身が尚貴に近づかれることを良しとしないのならば、なぜアルバイトを引き受けたのだろう。
有無を言わせぬ状況だったとしても、それを断るだけの度胸は持っているはずだ。
視線は尚貴を受け入れているように見える。しかし、見えない境界線を引き、決して他人を近づけさせない。
時が経つにつれて気づいた矛盾は大きくなり、尚貴の中で消化しきれていない。
そういえば、と思い浮かんだ事柄に尚貴は苦い笑みを浮かべる。
天野でさえ「尚貴」と呼ぶのに対し、蒼は苗字でさえ呼んだことがない。出会った当初にからかい口調でフルネームを口にしたことはある。だが、それ以降、彼は尚貴の名前を口にしない。
固有名詞はその相手自身の存在を認めていると暗に示すようなものだ。二人称で呼ぶか主語を完全に抜いてしまうことで、蒼は尚貴との会話を成立させている。
蒼の行動が何を意味するのか、つかめないまま顔をあわせていくことが苦痛になりつつある。
「まいったな……」
傍にいることが辛い。
小説で読み、書くことのある言葉をまさか自分が呟くことになるとは、一年前の自分では思いもしなかっただろう。
泣き言だと自分でわかっていても、それを理解してやれるほど尚貴は達観していない。
傍にいられるだけでいい。
そんな言葉は奇麗事だと考える尚貴は、それで満足できるほど聖人君子ではない。
それなりの感情を抱いていると認識した相手なのだ。傍にいれば温もりを感じたいと思うし、直にそれを知りたいとも思う。
だが、蒼自身はそれをどう思っているのだろう。
あの夜が唯一の接触であり、あれ以来蒼は尚貴がふざけて触れることにも僅かな緊張を持って迎えるようになった。頭を撫でる際に起こる強張りは、本人が隠そうとしたってわかってしまうものだ。
壁を造られてしまえば、尚貴は離れざるを得なくなる。
もしもそれが無意識だというのなら、尚更性質が悪い。
ふと視線を反らした先には時計があり、その針はまだ昼前を指していた。
ここにいれば仕事として蒼が顔を出す。そのとき自分自身が何を口走るのか、今の時点では何も予想がつかない。
ただでさえ蒼に対する感情が暴走しそうなのだ。せめて、蒼の姿を再び見られなくなる事態になることだけは避けたい。
「……出かけるか」
ついでに、頭が冷えるまでどこかに泊まってしまおうか。
丁度タイミングよく入っていた伝言が尚貴の呟きを後押しする。
そうと決まれば動き出すのは早いほうがいい。そろそろ蒼がやってくる時間だろう。
自室へ向かうとスラックスの色に合わせたジャケットを纏い、ある程度の場所に顔を出せる程度の格好へと着替えた。そして必要最低限の荷物をまとめると、携帯電話を片手に移動する。
数回のコール音で繋がったホテルに予約を入れ、今度は登録されている中から一人の携帯へと掛ける。
切り替えられた留守電に二言三言吹き込むと、尚貴はホテルへ向かうために部屋を後にした。
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