運命への岐路 =2=



「ソウ、これ12番テーブルな」

 はい、と返事をして差し出された皿を手に取る。

 花金と呼ばれたバブル期が過ぎても、金曜日は混雑しやすい。ましてや月末で一般的に給料日後と呼ばれる今日は特別だ。すでに3次会と呼ばれる時間帯でも客は途切れることがない。

 厨房から客席へとくりだそうとした蒼を、背後から呼び止める声があった。振り返れば厨房にいたチーフが手招いている。

「それ終わったら、悪いけどゴミを出してきて。ついでに外の空気も吸って来いよ。顔色悪いぞ」

「え? そうですか?」

「ああ。人当たりでもしたんじゃないのか? 少しくらい長めに出てもいいからな」

 自覚ないまま働いてるなら余計にな。そう言われては素直に頷くしかない。

 よしよし、と彼が満足げにカウンターへと向かうのを見届けて、蒼は小さな溜息を洩らした。

 皿を置くついでに注文を受けてカウンターへ。そのあと言われたとおり、ゴミを持って裏口から外に向かった蒼は、その澄んだ空気に体の力を抜いた。

 重いそれを半分引きずりながら指定の場所へ放ると、天に腕を伸ばしてぐっと縮こまっていた筋肉を解す。ばきっと嫌な音がなったのに、蒼は眉を顰めた。

「……まいったな」

 一番若い従業員だというのに、一番体力がなくてどうするよ。

 チーフを始めとしてこの店は人のいい従業員が揃っていると思う。顔見知りであってもなくても、誰もが人との距離を測っている。目の前の客が今どのように対処して欲しいか、それをきちんと感じ取る空気が流れているのだ。

 騒がしいだけの店ではなく、ただ居心地のいい店。そのように客の目には映るだろう。

 だが、そう思わせるのが一番難しい。その意味でも、この世界に片足を浸からせながら生きていく身として、この店は蒼にとって良い教師となる。

 体調といった変化が顔に出るなんてまだまだの証拠だ。いつでもどんなときでも平然と振舞うことが何よりも大事だというのに。

 深呼吸を何度か行うと、肺の中まで冷たい空気が入り込む。胸の中に溜まっていた何かを吐き出したような感覚に、気分が一新された。

「時間まであと少し、か」

 未成年である蒼は働く時間に制限が設けられている。それを遵守するオーナーの意向に沿ってシフトが組まれていた。今日の労働時間はあと一時間強である。

 チーフの言葉に甘えてもう少しほてった頭が冷めるまでここにいようか。

 壁に寄りかかって背中が汚れても困るから、躊躇した結果、出入り口の小さな段差に腰を下ろした。

 はぁと息を吐き出せば、微かに白い。季節柄地面の冷たい空気がスラックス越しに伝わり、蒼は小さな苦笑をその唇に浮かべた。

 こんな時煙草を吸えれば手持ち無沙汰にはならないだろうと思う。だが、それでは自分というものを相手に強く印象として残してしまうことになる。香水でも言えることだが、人間は匂いを相手の印象に結びつけることが多い。それだけで連想をさせるほど印象に残るようでは駄目なのだ。

 陰のように振る舞い、陰のまま人の記憶から消える。

 完全に人との繋がりを断つことは、人間としての生活を奪われることになる。それは不可能だし、何よりも人との係わりを絶ってしまえば元も子もない。

 自分の意志で陰になれればいい。もしくは、そのときだけ目立つ何かを纏うことで普段の「蒼」から離れることで、相手の印象を変える。そのためには、何気ない生活の中で匂いを纏うことは極力避けるべきだ。

 匂い、と呟いた蒼は、特定のそれを思い出す。

「……あの部屋、あまりしないよな」

 考えてみれば、尚貴は喫煙家だが、リビングといった場所で吸う本数は少ない気がする。その分仕事部屋では手放せないようだし、締め切り間近になれば部屋が煙でいっぱいになるらしい。

「仕事中の気分転換って意味が強いのかな?」

 だが、尚貴と煙草はすっかりセットとして蒼の中でインプットされている。他に結びつくのはアルコールに強いことと、スポーツカータイプを好むのかと思えば意外と地味な車を所有しているといったところか。

「実用性を重視しているところがあの人らしいけど」

 その点では天野と似ているかもしれない。外見に惑わされず、自分の好みを貫き通すその姿勢はどこか憧れに似た感を抱かせる。

「憧れ……か」

 それは、蒼がずっと心の内に秘めていた感情である。

 本人に言うつもりはないが、尚貴は蒼にとって誰よりも近づきたい存在だった。だが、近づく術もないはずだった二人の関係は、急速に変更されることとなる。店の客と店員、庇護する者と庇護される者、そして、雇用主と、雇用される者へ。

 短期間のうちにずいぶん関係も変化を遂げたものだと思う。蒼があの店から逃げ出すのを失敗しなければ、その途中で尚貴と出会い、彼が蒼を匿おうとしなければ、今という時間は存在しない。

 彼を知り、彼に知ってもらい、あまつさえ家に出入りするような仲にまでなった。それだけでも満足をすべきなのに、いつのまにか蒼の中である感情が膨らみつつある。

 迎えに来たときにキスをされて以来、蒼は複雑な感情と戦う日々が続いている。あの行為に意味はあったのだろうか、あったとするなら、それは何を示すのだろうか、と。

 無意識に指が己のそれを撫でているのに気づき、蒼は微かに頬を紅潮させる。

 あの時が初めてだったとは言わないが、それにしたって何らかの弁明なりを聞かせてくれてもいいじゃないか。

 それなのに尚貴からの説明はなく、こちらから問うこともできないまま時は過ぎていくばかりだ。

 ここまでくると、やはりあれは蒼の「言葉封じ」であって、それ以上の何物でもないのかと思い、その感情に戸惑う日々ももう過去になりつつある。

 やはり自分は彼にとって、好奇心を向ける相手でしかないのだろう、と最近は特に思うことが多くなった。

『興味がある』

 その言葉に嘘はないだろうし、実際その通りなのだろう。

 蒼を家政夫として雇っているのも、彼が蒼に対して疑問もしくは気になることを抱いているからだ。そうでなければ、こんな年の離れた人間を相手にするわけがない。

 彼の求める答えを与えたが最後、蒼の居場所はなくなってしまうだろうことは簡単に予想できた。それならば、彼の傍にいるためには彼に疑問を抱かせ続ける必要がある。

 彼はもちろん、自分でもこの状態のまま時を重ねたいのかと思うたびに、蒼は苦い思いを噛み締める。だからといって、全てをさらけ出すこともできないのだ。

 自分がどうしたいのか、それをつかめない限り、新たな行動は起こせない。まるで泥濘にはまり込んだような錯覚さえ抱いてしまう。

「……もう、本当にどうしようかな」

 現状を維持するも壊すのも、結局は自分次第なのだ。

 溜息を落としたそのとき、背中のドア越しに人の近づく気配がした。慌てて立ち上がるのと同時に扉が仲から押し開かれる。

「ソウ、混んできたから入ってもらいたいんだけれど、大丈夫?」

 チーフ自らのお出迎えに、蒼は頷いたあとで苦笑を浮かべる。

「わざわざ来てもらってすみません」

「いいんだよ。俺としては一瞬でも外の空気を吸いたかったからな。ああ、少し店も換気するか。店の入り口に立って、少しだけ開けておいてくれ」

「わかりました」

 先に戻るぞ、と姿を消した彼の後を追い、蒼もまた店内へと足を向ける。意識を切り替えたそのとき、蒼の背中で扉が閉まった。




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