三度目の運命 =9=





 蒼が出て行った。

 それを認識した瞬間、尚貴の脳裏にマンションの前で見た光景が浮かぶ。
 傾いだ身体を壁で支えながら歩いていった高校生らしき人物。それが蒼だったのだろう。その場で気づかなかったことを悔やんでも遅い。
 エントランスを出た尚貴は辺りを見回した。当然蒼の姿はなく、平和な平日の風景が広がっている。自身の感情と無縁なそれに尚貴は舌打ちをすると、迷うことなく蒼らしき人物が向かった方向へと足を進めた。
 尚貴と蒼の間にはせいぜい十分程度しか差がないはずだ。蒼の体調を考えれば、追いつけるだろう。
 しかし、尚貴の予想は裏切られた。どんなに走ろうと蒼を見つけることはできず、ただ時間が無駄に過ぎていく。徐々に時計を見やるペースが速くなり、そのたびに悪態を吐きかける自身を必死に押さえた。
 誰かの手が蒼に及んだのだろうか。それとも、どこかで蹲り、誰かの助けを借りたのだろうか。
 どちらにしても、安堵のできない状況となる。最悪の事態を考えれば、尚貴には一刻の猶予も残されていないのだ。
 息が上がるのを自覚しながら、それでも足を止めることはない。ここで追うのを止めたら、あとで後悔するのは自分だと知っている。
「……天野に連絡を取るか」
 呟いた言葉に尚貴はぎくりとした。天野を一切頭から打払っていた自分に気がつき、思わず足を止める。
 天野に連絡をして手を借りる。それはこんなに時間が経つ前に思いつくべき解決方法だったはずだ。なのに、尚貴は今もこうして一人で蒼の姿を探し続けている。
 蒼らしき姿を見かけていたから探し出せると思った。
 これは嘘ではない。
 そして、正解でもない。
 天野に連絡をすることで自分の不手際を認めたくなかった。何もなかったことにして、自分の対面を守る。蒼を預けるのに安心な場所だと思わせたかったのだ。そして、彼を天野に返さなくて済むように、と。
 気づこうとしなかった奥底に眠る感情がある。天野と、蒼と。それを認めなければならない時期が来たのかもしれない。
 だが、それは後回しでいい。蒼のことを考えたら、こちらの事情は後回しにするべきだ。
 ポケットを探るまでもなく、携帯電話のような感触がない。だが、彼の名刺は幸運なことに尚貴の財布に収まっている。あとは何処からか掛ければいい。
 今いる場所とマンションの間に確か公衆電話があったはずだ。普段何気なく見ているものを思い出すため、頭をフル回転させる。そこが小さな公園だと気づいた瞬間、尚貴は再び走り出した。




 子供に遊ぶ場所をと、公園が作られたのは尚貴がこのマンションに移ってすぐのことだ。それなりに緑が多く、子供から大人までが日向ぼっこをする場所にもなっている。崩れそうな天候のためか、さすがに今日は平穏な時間を過ごす人の姿は見られなかった。
 公衆電話は、と公園内を見回したその視界に樹の幹に蹲る人影を認めた。見覚えのあるシャツに、尚貴は大きな声でその名前を呼んでいた。
「―――――蒼っ!」
 尚貴の声が聞こえたのか、ひどく緩慢な仕草で彼は尚貴を見上げてくる。おそらく熱が上がったのだろう、木陰のせいだけでなく顔色は悪い。
 尚貴は慌てて駆け寄り、その前で膝を折った。熱を確認すべく額に手を当てると、案の定出かける前よりも熱い。
「なんで、ここに……?」
「馬鹿。おまえが部屋で大人しくしていないからだろうが」
「だって、あの女性が……」
「あんなのは放っておけばいいんだよ。だいたい、なんでチャイムに出るんだ! 俺のところにいる理由を忘れたのか!?
 天野が尋ねてきたときもそうだった。人目から隠しておかなければならない状況だということを、彼は失念しやすい。日数が経ったとはいえ、彼を追う人間がたどり着く可能性だって未だに残っている。警戒をするべきなのだ。
「病人は大人しくしてろ」
 それを暗に促したつもりだったが、蒼には伝わらなかったらしい。未だ額に当てていた掌が、ゆっくりとした動作で叩き落された。それどころか、熱のせいで潤んだ瞳が尚貴を睨みつけてくる。
「……どうして貴方が怒るんだよ。貴方にとって俺は厄介者のお荷物じゃなかったの? 放っておけばいいじゃないか」
「蒼?」
「……ああ、そうか。話のモデルやってたんだっけ」
「あのなぁ。俺が言いたいのは――――」
 反論しかけて、尚貴はその口を閉ざす。今、なぜこんな場所でこうしているのかに思い至ったのだ。こんな喧嘩腰で話している場合ではない。
「話は後だ。とにかく、部屋に戻るぞ」
 しかし、それを実行に移すには蒼の同意が得られなかった。二の腕を掴んで立たせようとすれば、身体ごと拒絶される。
「貴方が彼女とよろしくやってるのを同じ屋根の下で聞いてろって? 冗談じゃないっ」
「―――――」
 蒼の言葉は、尚貴が時と場合を考えない人間だと言っているようなものだ。追われている彼を匿い、確実に保護する。その決意を、彼はまったく信じていなかったのだろうか。
 蒼が部屋から姿を消してからというもの、こちらがどんな思いで走り回っていたかを蒼は知らない。それを考慮したとしても、とても軽くあしらう気にはなれなかった。
 たった一瞬で彼への気遣いは音を立てて崩れた。先ほどまでの安堵は怒りへと姿を変え、尚貴は彼を鋭い目で見下ろす。相手が病人だからといって容赦をするつもりはない。侮辱された報復はさせてもらう。
 だが、尚貴の視線を真っ向から返してくる蒼を見た瞬間、湧いた怒りは霧散してしまった。出てくるはずだった声を飲み込んでしまう。
 熱のせいか、いつもよりも潤んだ瞳が目の前にある。必死で瞳に力を入れて堪えているのだろうが、それでも浮かんだ涙が眦で珠を結ぶ。
 尚貴を拒絶したのは蒼なのに、なぜこんな辛そうな顔をするのか。
「お前……」
 どこかでこの隠された感情を見た覚えがある。探った記憶の中で思い至った尚貴は、今度こそ言葉を失った。
 振り向いて欲しいと送る秋波に近く、心では気づいて欲しいと訴えているというのに、答えが返ることなど望まない。厄介なそれを勘違いだと判断するほど、尚貴は人の視線に疎くない。
 お互いに言葉を紡がないまま、ただ視線だけをぶつけ合う。
 蒼が視線を逸らすよりも、尚貴が口を開くよりも先に、この空気を破ったのは車のブレーキ音だった。
 振り返った先には一台の車があり、一人の男が車から降りてくる。
 スーツに身を包むその姿は、見知らぬ者が見ればどこぞのお偉方だと思うだろう。まるでテレビドラマの中のワンシーンが目の前で行われているかのような錯覚を起こすに違いない。それほどに、彼は歳に似合わない威厳を発している。
 彼は、敵なのだろうか。
 こちらの戸惑いをよそに、彼は無言のまま近づいてきた。残り数メートルの地点で歩みが止まる。サングラスをかけているため、その表情は読み取れない。
 彼は蹲る蒼を一瞥すると、尚貴に対して頭を下げた。
「…………?」
 どう返すべきなのかわからない尚貴をよそに、彼は少年の名を呼んだ。幹に寄りかかる蒼が小さく頷くと、男は膝をつきその細い身体を抱き上げる。平均身長に少し足りないだけの蒼をよろけず支えるのだから、スーツの下には実用的な筋肉がついているに違いない。
 普段であればこれまでの彼の動作を逐一観察していただろうが、今の尚貴にそんな余裕はない。
 尚貴の関心は彼の腕の中にあった。あれだけ抗った蒼が、今は身動ぎすることなく彼の腕の中で目を閉じている。
 尚貴ではなく彼を受容れた。
 それがすべてだ。
「貴方には随分ご迷惑をおかけしました。後日お礼に伺わせていただきます」
 そう言い残し、彼は蒼を抱いたまま車のほうへと向かう。我に返ったときにはすでに遅く、蒼を乗せた車は静かに発進していた。




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