三度目の運命 =8=





 キーを叩き文章を羅列し、画面を文字で埋め尽くそうとしていた尚貴は、ふと数時間前の蒼とのやり取りを思い出す。

 今までこちらの質問に対し、はぐらかす回答がなかったわけじゃない。だがそれ以上に、蒼があそこまではっきりとした拒絶を表したのは初めてのことだ。
「天野との関係、か」
 何か深い理由があるのだろうと思って聞いたわけではない。むしろ予想外の反応に驚きが隠せない。
 恋人であるから、彼の立場を守ろうとしているのだろうか。
 ここまで彼らの関係に拘る理由が、自分でもわからない。
 わかっているのは、「恋人」と呟いた瞬間、胸を塞ぐ感情があったことだけだ。
「……やれやれ」
 完全に仕事から頭が離れてしまった。気分転換が必要だと判断した尚貴は嘆息すると、重い腰を上げる。
 扉を開け、廊下に出るとひんやりとした空気が尚貴を包んだ。空調が完備されているのは部屋の中だけなのだと今更ながらに思い知らされる。
 寒さに肩を竦めながら風呂場へ向かおうとしたそのとき、小さな音に気がついた。訝る間にしんとした空気が舞い降り、また繰り返されるそれが咳だと気づく。
 風呂場へ向かおうとしていた足でリビングへと向かう。扉を開け放つと、冷えた空気が尚貴を包んだ。
 まだコートが必要なこの時期、服のままで寝るのはさすがに酷だろうと余っていた掛け布団は最初の夜に渡していた。しかし、どうやら蒼は律儀に空調を止めて過ごしていたらしい。廊下と変わらない温度に気がつき、尚貴は顔を顰める。
 この三度の夜を、彼はこの寒い部屋で過ごしていたのだろうか。
 灯りもつけず無言のまま近づくと、こちらの気配に気がついたのか影の山が高くなった。
「大丈夫か?」
「…………どうして……?」
 不思議そうな声音に尚貴は肩を竦めた。
「おまえの咳が聞こえたんだ。それより、寒いならエアコンつけろ。咳するまで我慢するな」
「別に我慢なんか……っ」
 いつもの勢いで反論しようとした科白は蒼自身の咳で遮られた。口元を押さえて丸くなった背中を撫でてやりながら、尚貴はどうしようかと考える。
 ここで空調を完全にして出て行っても、蒼の性格からすぐに止めてしまうだろうことが予想できる。かといって、布団を尚貴の分まで持ってきても彼は受け取らないだろう。
 頑固さは誰よりも強いとなれば、解決方法は一つしか浮かばない。
 蒼の呼吸が治まったのを見取り、尚貴はそれを実行に移した。ソファーを覆う布団を払いのけると、その細い身体を横抱きにして持ち上げる。
 年齢の割りに細めな彼の体重は軽い。この分なら年齢平均を超すことはないだろう。
「ちょ……ちょっと待ってっ」
 一瞬の間を置いて蒼が手足をばたつかせた。予測していたとはいえ咄嗟にバランスが取れず、尚貴はその場で蹈鞴を踏む。蒼を落とさなかったのは意地と偶然の結果だ。
 自分の身体が投げ出されかけて初めて自分の状態をきちんと理解したのだろう。蒼が硬直したのを感じ、尚貴は溜息をつく。
「……馬鹿が」
「だ、だって――――っ」
 言い訳をしようとした蒼は、そう言葉を紡ぐことなく咳き込み始める。
 先ほどもこちらに噛み付こうとした途端同じ目にあっていたなと、呆れた思いで腕の中の人物を見下ろした。
「居候は大人しく家主の言うことを聞け」
「…………」
「このまま熱とか出されてもこっちが困るんだよ。俺に看病なんてできるわけないだろう」
「看病なんて、必要な――――」
「これ以上反抗するようなら」
 蒼の言葉を遮り強者の口調で言えば、蒼の声がぴたっと止む。嫌な予感がするのだろう、こちらを窺う視線に、尚貴は唇を上げることで応えた。
 彼がこれ以上尚貴を拒めないようにするのは簡単なことだ。
「あの店の内情を話せ。だったら降ろしてやる」
 彼が飲めないだろう条件を突きつけることで、彼が後に引けなくなるのは計算済みだ。
 案の定彼は言葉を失い、次に射るような視線を向けてきた。それを涼しげに受け止めると、尚貴は歩を進める。向かう先は唯一の寝室である。
 扉を開け中に入ると、すっかり大人しくなった蒼をベッドに横たえた。向けられる瞳も、先ほどより弱くなっている。その身に布団をかようとした尚貴の腕に彼の指がかかった。
「どうした?」
「……貴方は?」
 この質問が尚貴の今夜の寝床を示すのだと、気がつくまでに数秒掛かった。
 唯一のベッドを蒼に与えてしまえば、尚貴はリビングのソファで眠ることになる。いっそのこと仕事部屋でも構わないと考えている自分に内心苦笑したが、それを敢えて口にするつもりはなかった。
「気にしなくていいから、何も考えずに寝ろ」
 この言葉に蒼は納得をしなかったようで、内心の不満を表すように袖を掴んでくる。
「……蒼」
「貴方に迷惑かけるの、嫌だ」
 ここに逃げ込んだ時点で彼は後悔をしていたのだろうか、と疑問が尚貴の頭を過ぎる。そして、この言葉を今更だと思うべきか、それとも今だからと考えるべきなのか。
 負荷の掛かる場所を見やり、尚貴は指の持ち主へと視線を向けた。こちらの妥協を許さないという瞳が尚貴を捕まえる。
「だったらどうしろと?」
 尚貴が呆れた口調で蒼の模範解答を求めると、彼は自分の中の答えを探し出すように瞳を伏せる。数瞬の間を置いて、彼は再び尚貴を見上げた。
「……貴方も、ここで寝てよ」
 意外な言葉に尚貴は耳を疑った。相手が女であれば、セクシャルな意味が含まれていると勘違いしそうな科白である。
「風邪をうつす気か?」
「……そう思うなら、僕が向こうで寝る」
 その真意を問うように目を向ければ、今度は反らすことなく真っ向から返された。他の回答など欲しくない。腕を掴む指が、瞳に宿る強い光が、尚貴を捉える。
 しばらくそのまま無言の駆け引きを行い、降参したのは尚貴が先だった。
 わかったと呟き、腕にかかる蒼の指を軽く叩く。力の抜けたそれをベッドに下ろさせると、蒼の身体を今度こそ布団で覆った。
「シャワーを浴びてくる。……おまえは先に寝ていろ」



 翌日の正午過ぎ、尚貴は近くのドラッグ・ストアにいた。
 類似品が数多く並んでいる陳列棚を目で追いながら、昨夜を思い起こす。
 尚貴が寝室に顔を出したのは丑三つ時に近かっただろう。あのまま蒼が眠っていればあの約束は反故される予定だったが、彼はうたた寝をしながらも尚貴の入室を待っていた。
 扉を開け中の様子を窺っていた尚貴を、彼は上半身を起こして迎える。嘆息をついて同じ布団の中に潜り込むと、しばらくして彼は素直に寝息を立て始めた。その前にしっかりと尚貴のパジャマの袖を掴んでいたのは、彼なりに尚貴の性格を読んでいた証なのかもしれない。
 肉体関係もない相手とベッドを共にするなんてどれくらいぶりだろうか。
 お互いの身体を弄るのではなく、ただ、体温を分け与えるだけの接近。
 蒼の拘束に苦笑しながら眠りについた尚貴は、昼前に目を覚ました。その時傍らの温もりを抱えていたのはご愛嬌だろう
 初めて見る寝顔はあどけなく、ふっと微笑みかけた次の瞬間眉を顰めることになった。僅かに蒼の呼吸が速いのだ。即座に額と項に手を当て微熱だろうと判断する。
 記憶を辿るまでもなく、この部屋に薬類は一切置かれていない。尚貴はそっとベッドから抜け出すと手早く着替え、布と鍵を確認する。なるべく音を立てずに外へと出、今こうして店にいるわけだ。
 熱で寝込む相手に食べさせるものといえば何だろう。二十数年生きてきて一度も考えたことのない疑問の答えを探しながら買い物をする。
 こんな風に誰かのために自分が動くなんてことは、振返る限り思いつかない。蒼と出会って以来、尚貴は初めての経験を積み重ねている。
 蒼に振り回される一方で、それを拒もうとしない自分がいる。随分変わってきたものだ、と尚貴は小さく苦笑した。
 悩んだ末に、尚貴は薬剤師に相談をもちかけた。思っていた以上に親身な説明を受け、ついでに勧められた薬と冷却シートを購入する。
 気になるのは、「薬を飲む時は食後ですから、何かお腹に入れてあげてくださいね」と言われたことだ。尚貴が余程薬に対して何の知識をもたないと判断されたということなのだろうか。
 当たり前だ、と強気で呆れることができないのは悲しい。
 信号の少ない道を選んでいた尚貴は、マンションが見えてきたところで一度足を止めた。目的地から、出てきた人影に目を奪われる。その背格好が、自分の所の居候に似ていたのだ。
 まさか、と疑った尚貴は、次の瞬間否定をする。
 ファミリータイプと銘打っているだけあって、このマンションにはいくらかの高校生が住んでいる。第一彼はまだ眠っているはずだ。
 体調が思わしくないのか、彼は一瞬傾いだ身体を壁についた手で支えた。そしてゆっくりとマンションから離れて歩き出す。
 それを何となく見送ってから、尚貴は自分の部屋へと向かった。



 自分の部屋がある十階で降りた尚貴は、真っ直ぐ奥部屋の前に立つ。キーを回すと、重い音と手ごたえがあった。
「…………?」
 まさか、と思いノブに手を伸ばすと、錠がしっかりと下りている。
 先ほど家を出たときに閉め忘れたのだろうか。尚貴は浮かんだ疑問を即座に否定した。
 近頃この階にまで新聞などの勧誘が多い。無理やり入られたという噂も聞くし、実際に煩わされたこともある。そのため、戸締りだけはきちんと確認している。
 ならば、誰かが訪問してきたときに対応した蒼が閉め忘れたと考えるのが妥当だ。
 納得した瞬間、苛立ちが尚貴を襲う。
「あいつは……っ」
 言い捨てながら、再び鍵を回す。
 何のためにここにいるのか、彼は覚えているのだろうか。どうも追われているという本来の立場を忘れているような気がしてならない。
「おい、蒼…………?」
 対応する気力があるのなら、起きているに違いない。そう判断して扉を開けた瞬間声を荒げた尚貴だが、次の瞬間首を傾げることになる。
 ほど良い広さの玄関口に、見覚えのないものがあった。この家にはありえない、女物のヒール靴だ。
 蒼の知り合いだろうか。それにしては、誰かがいるにしても、話し声などの気配がないのはおかしい。
 何よりも、彼が無断で人を上げること自体納得いかなかった。
 その場で考え込んでいた尚貴の耳に、足音が届いた。蒼とは違うその歩き方に顔を上げると、この靴の持ち主だろう人物が向かってくる。
 普段はまとめているという髪を下ろし、女だということを醸し出している。はっきりとその顔立ちがするにつれて自分の目つきがきつくなるのを、尚貴は自覚していた。
「お帰りなさい」
 笑顔を浮かべた相手に、尚貴はまるっきり逆の表情を向けた。それ以上彼女が近づくことを躊躇わせるような、鋭い視線で立ち尽くさせる。
「―――――なぜ、ここにいる」
 普段よりも低く、凄んでいるかのような声音に相手が怯んだ。それも当然だろう。彼女を始めとする夜の相手には一度も見せたことのない態度なのだから。
 一瞬遅れて彼女は媚を含んだ視線と共に尚貴に触れる。
「いやだ、そんな恐い顔……」
 それを冷静に払いのけて、尚貴は相手を突き放した。
「俺は一度も住所や住んでいる場所を教えたことはなかったはずだが」
「…………」
「俺は自分のテリトリーを侵されるのが一番嫌いなんだよ。勝手に他人の家を調べて、あまつさえ入り込むような奴と話す気なんか起きやしない。とっとと出て行け」
「な……じゃ、じゃあ、あの子は何なのよ!?
 ようやく口を挟んだかと思えば、自分のことより他人のことか。数度の関係しかもたなかったはずだが、それにしても見る目がなかったとしか言いようがない。
 最低限のことすら理解できない人間の相手をしていた自分が愚かだと思うほどに。
「答える義理はないな」
 一度も見せたことのない態度に、相手は無言のまま一歩退く。その脇を通り、尚貴はリビングへと向かった。
 彼女が入るためには、蒼が鍵を開けるしかない。大方、押し切られたのだろうが、それでも自分の領域を勝手に侵された気がする。
 かつてないほどの憤りを抱えて寝室へと向かった尚貴は、扉を開け放つと同時に声を失った。
 乱れた寝具は蒼が寝ていたということを示しているが、肝心の中身が見当たらない。人が隠れるほどのスペースはクロ−ゼットの中くらいだが、隠れるほどの体力を持っていないだろう。第一、隠れる意味がない。
 蒼がいない。
 そう認識するや否や、尚貴は踵を返した。扉という扉を開け放ち、蒼の姿を探すが見当たらない。
 勢いのまま玄関に戻れば、未だに彼女は立っていた。何を勘違いしたのか、顔を上げたその表情が一瞬明るく輝く。
 目前の相手がどんな反応をしようと、尚貴の興味は惹かれない。彼女の望む言葉を理解していながら、尚貴はそれを無視した。
 今は、何よりも優先事項がある。
「あいつは、どこへいった」
「……あいつ?」
「おまえをこの部屋に入れて、どこかへ行った馬鹿のことだよ」
「わ、私よりも、あの子が大事だって言うの!?
 掴まれた腕に長い爪が食い込むのを感じ、尚貴は眉を寄せた。
「離せ」
「答えなさいよ! 私よりも、あんな子がいいの? 男の子じゃない!」
「…………」
「そう。それなら! あんたの周りに言いふらしてやるわよ!」
 必死の形相で詰め寄るその姿は、普段の装いからかけ離れていた。媚を含む目が、裏切り者、と訴える。
 だが、それは尚貴に何の効果ももたらさなかった。それどころか、小説に生かせるだろうと観察をさせるだけだ。
 形振り構わず尚貴をひきとめようとするその根性には脱帽するが、それを喜ぶほど尚貴は相手に入れ込んではいない。感じるのは嫌悪感だけだ。
 何より、こんな事態になってさえ、他の人物が尚貴の頭を占めている。
「勝手にしろ」
 言葉を失った相手に背を向けた尚貴だったが、やおら振り返り身動き一つしない人物を一瞥する。
 その視線にどんな印象を抱かれようと、構いはしない。
「戻って来た時にまだ居れば、それなりの手段をとらせてもらう。それが嫌なら消えろ」




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