三度目の運命 =10=




 自分のテリトリーが侵されるのを嫌い、孤高を好む。尚貴にはその生活が、がんじがらめで育ってきた過去を忘れるために必要だった。誰にも煩わされることのない日々は平穏そのものといってもいい。

 家族でさえ煩わしいのだから、自分以外の他人と四六時中側にいる暮らしは、さぞかし窮屈だろうに。「特定の誰か」を求める世間を覚めた目で見るのが当たり前。付き合う相手もこちらの不都合にならない人物ばかりを選び、煩くなってきたら切り捨ててきた。
 それがどうだろう。
 気まぐれで拾った猫に翻弄され、さらにはその猫を構う相手に対して嫉妬を覚えるなんて。いつしか、その猫自身が尚貴ではない誰かに反応することさえ許しがたくなるほど、猫に捉われる。
 決して尚貴には生み出させない表情、態度、そして声音が二人の間にある壁を厚くした。他人から見れば一目瞭然な理由でも、当人にとっては一向に理由がつかめないまま時は過ぎる。
 たかが数日。されど数日。
 気づいたときには、すでに手遅れとなっているのが世の常というもの。人は、耐えがたい痛みを失って初めて知るという。
 そして、誰もが皆、自分を見つめ直すには時間がかかる。
 立ち止まって足元を見やるころには、猫はその姿をどこかに隠してしまった。



 彼は誰なんだ、彼は蒼を知る相手なのか、店の関係者なのか、と考えるまもなく終わってしまった、五分にも満たない奪取劇。
 呆然と車を見送った尚貴が我に返り、部屋に帰ったのは車が去ってしばらくのことだ。誰もいない空間を目にした途端、それまでの疲労が一気に襲いかかる。疲れを紛らわすように夜の街を彷徨い、勝手知ったる店で時間を潰した。相手によってはその後の時間を費やすつもりで。
 ところが声がかけられるたびに、脳裏に必ず蒼のことが浮かんだ。部屋には誰もいないというのに、彼が尚貴の帰りを待っているかのような感覚がある。
 せめて酔ってしまいたい。だがそれも思惑を外れ、浴びるように飲む酒も尚貴の意識を奪うことはできない。例えここがどれだけ賞賛されている店だとしても、蒼の料理が恋しいと思ってしまうに違いない。
 今夜は酔うのを諦めるべきだろう。
 溜息をつきながら店を出て、春にはまだ遠い夜の空気にその身を振るわせた。空調に慣れた生活では味わうことのない風の冷たさに身を竦める。
 愛車はいつものように近くのパーキングに止めてある。だが、酔った感覚がなくとも、ここまで酒を飲んだ状態で運転するほど愚かでもなかった。大通りではタクシーが溢れている時間だ。平日でもあることだし、空車で流れているだろう。
 そう思いながらも、尚貴の足はマンションへと向かう。誰もいない場所でじっくりと考えようという気分になっていた。
 人通りの少ない道を選びながら、尚貴は自分の思考へと意識を這わせる。
『小説家なら想像してみれば?』
 途端に、初めて蒼との間にできた気まずい空気が思い出された。
 あの時は揶揄に感じた言葉も、今はそう感じない。むしろ、心を塞ぐ何かを堪えるように搾り出した声音にさえ思える。如何なる時でも尚貴と視線を交わす余裕を持つ青年が背を向けて応えた。顔を見せようとしなかったのが、その答えなのではないか。
「―――何を言いたかったんだろうな、あいつは」
 誰かの視点で物事を見るためには、その人物の性格を含めて思い描かなくてはならない。尚貴は蒼という人間について不勉強だ。たとえ知っていたとしても、尚貴の考えを読める者がいないように、蒼の思考は蒼しかわからない。
 それとも――――彼なら知り得るのだろうか。
 ふと、尚貴の部屋を突き止め訪問してきた人物が浮かぶ。
 あの夜、尚貴と蒼が抱き合ったのは、人目を気にせず抱き合う恋人を演出するためだった。震えていた躰を抱き寄せたのは、恋人として互いの温もりを分け与えるためではない。
 それがどうだろう。彼は天野の胸の中で素直に体重を預けていた。抱き寄せる腕に逆らうこともなく、その腕の強さを甘受していた姿が脳裏から離れない。
 天野でなくとも同じだ。尚貴を拒み、迎えの人間に自身を委ねる蒼の姿を見たとき、世界が凍りついた気がした。
 蒼が、自分以外の誰かに頼り、甘え、そして寄りかかる。想像だけではなく、この目で見たあの衝撃は今でも尚貴の中で蟠っている。
「………………ばかだな」
 呟きは闇夜に溶け込む。
 この感情を、世間で何と呼ぶのか知らないほど無垢ではない。
 街灯のあたらない場所で足を止めてその場に留まる。
 夜空を見上げるなんて懐かしい行動をとり、尚貴は密やかに笑った。たまには徒歩もいいものだなと穏やかな感情が浮かんでくる。
 住宅街でもあるせいか、空を脅かす人口の光は弱い。同じ都内といえども、場所が違えば見えるものも異なってくるのだと改めて認識した。
 ―――吐く息が色を持たなくなる時期にはまだ遠いだろうか。




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