三度目の運命 =7=





 蒼との生活が始まって三日目。

 尚貴には尚貴の生活リズムがあり、それを崩されるのを良しとしなかったはずだ。だが、自分以外の気配と食べ物の匂いに早くも慣れつつあるのを認めなくてはならないようだ。
 リビングに用意された食事はきっちり二人分ある。昨日とメニューが違うのは、冷蔵庫の中身が充実したからだ。
『何か食べたいものある?』
 天野を見送った後、蒼から話し掛けてきたのは先ほどまでの空気を一掃するものだった。意図を掴めないまま思いついた料理を音にすると、彼はにっこりと笑みを浮かべた。
『じゃ、あとでリスト書くから買ってきて』
 彼が姿を隠している身分だということを思い出したのは一瞬の後のこと。言葉を失い、リビングに向かう蒼を止めなかったのは運がよかったと言えるのだろうか。
 尚貴が二の句の告げない立場を味わったのは実に久しい。電話の脇にあった紙で買い物一覧を作る蒼に、尚貴は苦笑をした。
 これが肉親だったら、尚貴はけしてこの場に留まったりはしなかった。買い物を頼まれようなどと思うこともないと断言できる。
 自分の食生活のためだと言い聞かせたが、いつまでもつのか疑問だ。
「? 寝てないの?」
 ゆっくりとした動作で席についた尚貴の前にコーヒーが置かれた。挽きたての香りが尚貴の複雑な感情を解していく。ゆったりと笑みを浮かべる余裕さえ浮かんだ。
「ああ。パソコンに向かったまま気がついたら明るくなってたな」
 続いて小さなミルクポットが置かれる。かつての贈り物を、何処からか探し出してきたらしい。
 言うまでもなく、カップも暖められたものだ。何をどうしたら美味しくなるのか、彼はきちんと理解している。
「こういうのも、店で覚えたのか?」
「……こういうの?」
 目の前の席に落ち着いた蒼が小首を傾げる。
「コーヒーの淹れ方とかだよ。器を温めることとか、面倒がってやらないやつは多いだろう?」
「ああ、そういうこと。これはうちの習慣だよ。このほうが美味しいから覚えておきなさいって」
 そう口にしてから、蒼は肩を竦める。
「あの店ではそんなの教えないよ。キッチンとホール、完全に分かれているもの。ホールに出ていれば、運ぶことが仕事だったしね」
 あっさりと否定する蒼に驚いて、尚貴は口元に運んでいたカップを止めた。持ち上げた手を静かに下ろすと、蒼が不思議そうな顔をする。
「何? 変な匂いでもした?」
「そうじゃなくて―――いいのか? 店の話をして」
「別に、問題発言じゃなかったでしょう? あの人が出した条件は、貴方の小説にあの店を登場させないことであって、話すこと自体を禁じたわけじゃない」
「それはそうだが……」
 店の話がタブーだと気づいたは、訊いてからだった。探るように見つめると、蒼が微苦笑を浮かべる。
「訊かれてまずいと思う内容だったら僕は答えないよ。きちんと宣言したように」
 言われて、彼と交わした約束を思い出す。
 ―――言えないことは話さない。それが、蒼の出した譲れない条件だ。
 自分として守らなくてはならない一線を彼は自覚してる。それを踏まえての答えだったのだと、尚貴は今更ながらに気がついた。
 小賢しいという表現を超えるほどの、回転の速さかもしれない。
「…………お前、本当に未成年なんだろうな?」
「一応ね」
 小さな声を立てて彼は笑った。
 本当に、実年齢に見合わない考え方をする少年だ。



 尚貴の仕事スタイルは一定ではない。仕事部屋に籠もって一気に仕上げることもあれば、ノートを手にリビングで寛ぐこともある。ベッドに寝転がりながら書くこともあるが、体外その場合は頭が半分寝ているときだ。
 ノートにアイディアを書き綴り、今進めている話とつき合わせる。頭の中でキャラクターが動くほどのイメージが固まらない限り、話は進んでくれない。そうなれば、パソコンの前に何時間座っていようと、同じ画面のままだ。
 尚貴が話しかけ、蒼が答えるというスタイルが出来上がったのは、尚貴が突発的にペンを走らせるからである。
 人に見られる恥ずかしさが麻痺してきたというのもあるが、彼の側で書くことに抵抗感が生まれない。誰かと酒を飲み、その場で文字に換えることができないのはできないのは何よりも苦痛だ。浮かんだ言葉を逃さないで済むのは何よりもありがたい。
 夕食後の一時を蒼と話しながら過ごした尚貴は、彼が洗い物に立ったのをきっかけにノートを開いていた。
 蒼との会話を反芻しながら、彼の言動が小説のキャラクターに影響させられないかを書き綴る。
 自分よりも六つも歳が違う少年との会話は、尚貴に年齢差を感じさせることが多々ある。最近読んだ本がどうだったとか、周りの人間関係はどうなのだとか。蒼との話は、ほとんどが些細なことだが、市場リサーチをしていると思えば小説のネタになる。
 ふいに紅茶の匂い部屋に届き、尚貴の鼻をくすぐった。ゆっくりとした動作で尚貴が顔を上げると、先ほどまで洗物をしていた蒼がいる。その手元には未使用品に近いカップに茶色い液体が揺れていた。
「ごめんなさい。邪魔した?」
「いや、ちょうどいい」
 蒼に座るよう合図をしてから、尚貴は煙草に手を伸ばした。抜き取った一本を口に咥えると、蒼がライターに触れようとするのを遮る。
「ここは店じゃないんだから、そういうことをする必要はない」
「は、い」
 普段一緒に飲む女たちには告げたことのないセリフが自然とこぼれた。どうしてだかわからないが、彼に火を差し出されるのを躊躇ったのだ。かつて、あの店でされたときには何も思わなかったというのに。
 煙草に火をつけ、煙を吸い込む。深い息とともに吐き出しながら、尚貴は蒼を見やった。
「何を書いているのか、気になるか?」
「気にならないと言ったら嘘になるよ。貴方の文章が生まれるところを間近で見られるんだから」
 自分が書かれていると思ったらね。そんなセリフが返ってくると思っていただけに、尚貴はいささか拍子抜けをした。尚貴の様子に気づいているのかいないのか、蒼は言葉を続ける。
「僕は文章が得意じゃないから、人が作文とかをすらすら書いているのが不思議だった。何処から言葉が生まれてくるんだろうって。ここから貴方の世界ができるんだと考えると凄いなって思うよ」
 素直な賞賛は容易に聞き手を陥落させるものだと知っている。だが、それを体験したのは初めてだといっていい。
 尚貴にどれだけの攻撃を加えたのか、自覚さえないのだろう。うっすらと微笑すら浮かべてみせる蒼に、尚貴は降参の白旗を揚げたくなる。
 その一方で、冷静に観察を続ける自分がいた。
 こんな柔らかな表情をすることができるのに、時によってはこちらを射るような視線を向けてくる。感情が豊かというよりも、表裏の使い分けをきちんとしているといったほう感じだ。
 使い分ける。
 浮かんだ言葉は思いもかけず尚貴の感想を正しく表しているような気がした。だが、何のために。
 なんにせよ、賞賛に対して礼を述べるのは気恥ずかしいものだ。だから尚貴は話題の転換を図った。
「そういえば、高宮って何をしているところなんだ?」
 聞いてみようと思ったのはふと心に名刺の存在があったからだ。後で調べようと思いながら財布に入ってはいるが。
 文章の話から飛びすぎたせいか、質問の意味がつかめなかったのだろう。少しの間を置いて、彼は答えを導いた。
「警備保障ってあるでしょう? ガードマンの派遣をやったりするところ。高宮は他にも警備システムの開発なんかもやってる。一般には名前が広まっていないけれど、一部では凄く有名みたいだよ」
「一部?」
「そういうのを個人的に必要としている人たち」
 蒼の言葉から、ガードマンというのは、私設ボディーガードも含んでいるのだと尚貴は理解した。社交界と呼ばれる世界は未だに存在する。出歩くために周りを固める人々が顧客だと考えてよいのだろう。見得と建前が跋扈する世間一般から隔離した場所だ。はたして、どれだけの人が本当に必要としているのだろうか、と余分なことを考える。
 視線だけで周囲を凍らせることもできるだろう、あの男。確か秘書室付きということだったから、天野はその現場に出ているわけではあるまい。二十代前半で秘書となるのなら余程優秀なのか、人脈を持っているということなのか。
 そこまで連想をして、尚貴は今まで蟠っていた問題に目を向ける。
 目の前にいる青年と彼は、どういう繋がりを持つのだろうか。
「じゃあ、おまえと天野の関係は?」
 真っ向から見つめると、蒼が驚いたように瞬きをする。
「僕と義孝さんの関係?」
「ああ」
 頷くと同時に尚貴の頭の中では昨日のシーンが蘇る。
 抱き寄せた側の安堵と抱き寄せられた側の無警戒心は、彼らの関係を顕著にしている気がするのだ。
 友人というには歳が離れすぎているし、兄弟というには顔が似ていない。それなのに、纏う空気が類似している。
 サラリーマンであるのなら、余程の関係じゃない限り仕事を放って蒼の無事を確認したりしないだろう。
「………」
 こちらの意図を探るように視線を向けてきた蒼は、何かを考えるように瞳を伏せる。
 彼が悩むほどの質問などしていないつもりだった。それなのに、彼は何を迷っているのだろう。女が羨むだろう長いまつげの影が、彼の憂いを象徴している。
 やがて、蒼は溜息を一つついた。
「ノーコメント」
「お、おい」
 顔を伏せたまま立ち上がった彼に、慌てて声をかける。ようやく向けられた顔には、作られた笑顔が浮かんでいた。
「小説家なら想像してみれば? 案外当たってるかもよ?」
 それはどういうことなんだ。尚貴が問いかける前に、蒼は後姿を見せる。
 その背中は尚貴の質問を拒絶していた。





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