三度目の運命 =5=





 目の前にいるのは向かい合った二人の姿。

 尚貴の目にはストップ・モーションのように映った。
 振り上げられた手は躊躇うことなく一回り以上小さい青年の頬へと下りる。
 恐らくは加減されていただろうが、尚貴の耳に届いた音はその威力を物語っていた。
 呆然とその光景を見つめる尚貴の前で、男は蒼の身体をその胸へと抱き寄せる。途端に男が肩から力を抜いたのは距離を挟んでも知れた。
 我に返ったのは訪問者が尚貴に視線を向け、蒼を解放したのを見届けてからだった。
「―――見苦しいところをお見せいたしました」
 きっちり蒼から一歩横にずれ、腰の角度で頭を下げる。それは強制で覚えた動作ではなく、自然な流れに沿っていた。
 それを横目に、尚貴は蒼へと視線を転じる。彼は俯いたまま叩かれた頬に手をやり、何の反応も示そうとしない。
「どちらさま、と聞くまでもないか」
 尚貴の言葉に男が顔を上げる。
 暗がりで見えないが、間違いなくその表情はこちらを窺っているだろう。
 この場所で目の前の人物を誰何するのは簡単なことだった。
 二人の立つ場所から一歩も動かさず、蒼をこちらに呼び寄せ、新たな人物を追い払うことも。
 しかし、それをするには蒼の態度が物足りない。男を拒絶する空気を纏っていないのだ。
 たった一晩で蒼を信頼している自分に苦笑を浮かべた。
「そこで話されたら仕事部屋に筒抜けになる。聞かれたくない話をするなら、居間を貸してやるからそこで話してくれ」



 パソコン前の椅子に腰をかけ、勢いに任せて背にもたれると、それは音を立てて軋んだ。
 そのままの体勢で扉の向こう側を窺う。ややあって二人の気配が移動するのを感じた。どこかつまらないと思っている自分に苦笑をし、尚貴はパソコンの電源を入れる。
 せっかくこの部屋に閉じこもっているのだから、仕事でもしてみようかという気になった。
 マウスを動かし、見慣れた画面を呼び出すまで数十秒。
 その間に思考は先ほど見た光景で占められてしまう。
 自分を叩いた相手の胸に顔を埋めていた蒼の姿を思い出し、尚貴は前髪をかき上げる。
 あの夜とは異なり、抱き寄せられた蒼は逆らうことなく男の腕を甘受した。それどころか、尚貴には蒼が男の方に顔を埋めているようにさえ思える。
 相手が男だから、とかつまらないことを言うほど、尚貴はリベラルな考えの持ち主ではない。どんな形であれ、相手を好きだと思うのは普通のことだと尚貴は思っている。
 彼の、恋人、だろうか。
 浮かんだ言葉に胸が大きくざわめく。
 この波立った感覚が何を捉えようとしているのか、わかっていることは何一つない。
 考えられるのは、蒼は今ごろ彼に叩かれた頬の痛みを気にしてなどいないだろうこと。
 今ごろ男の胸の中で涙を流しているのかもしれない。
 尚貴に見せたことのない顔を、あの男はどれだけ知っているのか。
「…………なんなんだ、俺は」
 自分から想像した光景に苛立っていても仕方がない。
 気分を落ち着かせるために、尚貴は机に手を伸ばした。持ち運ばなくてもいいようにストックしてある煙草を手に取り、指先で弄ぶ。
 金属の音を立てながら火をつけ、肺の中に煙を吸い込んだ。昇る紫煙を見やり、波立つ心を静まらせようとする。
「そもそも、あいつは観察用じゃないか」
 思ったことを音にして、尚貴は深い溜息をついた。
 蒼をここに連れてきたのだって、頭から離れない彼をいっそのこと小説に使ってやろうと思ったからだ。
 それなのに、こちらが捉われてどうする。
 苛立った勢いのまま灰皿に火を落とし、そして新たな煙草に火をつけることを繰り返す。その間尚貴の意識はすでに余所へと飛び、省エネモードに入ったパソコンに向くことはない。
 尚貴の思考を邪魔したのは、控えめなノック音だった。
 それは止んだかと思えば、間を置いて再び繰り返される。
 昨日までの生活になかったそれは、尚貴に人気のある生活を思い起こさせた。誰何することもなく振り返れば、戸を開くことなく彼は言葉を紡ぐ。
「仕事中、だと思うけど、義孝さん……天野さんが話をしたいって」
 蒼の声に言葉を返すことなく、尚貴は立ち上がる。無言のまま扉を開けると、叱られた子供のように項垂れていた。
「どうした?」
「反応ないから、怒ったのかと思った」
「怒られることしたのか?」
「……天野さん、勝手に入れちゃったし」
 一応家主の許可なく二人の世界に入ったことを気にしてはいるらしい。
 真っ直ぐに視線を受け止めないのが彼らしくない。俯く顎に指をかけ仰向かせ、驚いた瞳を向ける少年に尚貴は高慢な笑みを浮かべてみせた。
「似合わなんな。それとも、あの男がいるから大人しくして見せているだけか?」
「そんな……っ」
「だったら、弱々しい顔をするな」
 低く諌める声に、細い躰が震えた。だが次の瞬間高い音とともに尚貴の指は弾かれ、目前の表情ががらっと変わる。射抜くような視線が向けられ、尚貴は涼しげな顔のまま唇を持ち上げた。
「行くぞ」
「……え?」
 毒気を抜かれたというように、その瞳には先ほどの鋭さはない。年相応の表情に、尚貴は肩を竦めた。
「お前は何のために俺を呼びに来たんだ?」



「先ほどは挨拶もせず、失礼致しました」
 蒼を伴いリビングに入ると、男はソファの前で立っていた。尚貴が近づくのを待ち、頭を下げる。
 鷹揚に頷いたのは、こちらが強い立場にいると錯覚したからではない。蒼を迎えに来た人物を少しでも長く観察するためだ。
 天野義孝です―――名刺を差し出しながら名乗った男はスーツに身を固め、姿勢も正しくこちらを見ている。
 年齢は読めないが、三十路にはまだ早いだろう。身長はほぼ自分と同じ。しかしスーツをこれだけ着こなすのだから、その体格は間違いなく彼のほうはずだ。そして何よりも彼を取り巻く空気に隙というものが感じられない。異性が喜びそうな端整な顔立ちだが、近寄りがたい空気を纏う相手。
 もし、正体が暴力団幹部だと言われても納得できる。その辺のチンピラ風情には太刀打ちできないものを秘めているように見える。強いて言えば、何を犠牲にしても自身の意志を貫く強さ、とでも表現すれば良いのか。
 問題は、どうして蒼がこの男と共通の繋がりを持っているのか、ということだ。
 彼にソファを勧めると同時に自分も腰掛ける。一人掛けを尚貴が陣取ったことから、蒼は必然的に天野の隣となった。
「前連絡もなく突然お邪魔して申し訳ありません」
「詫びは先に受け取った。それよりも、話があるから俺をこの場に呼んだんだろう? 仕事が詰まっているとは言わないが、結構せっかちなんでね」
 早くしてくれ、と急かせば、目の前の男がくすりと笑った。
「私と彼の関係が気になりますか?」
 尚貴の感情を逆撫でしようとしているのだろうか。向けられる視線はこちらの反応を窺っていた。あからさまな行為に、尚貴の心は反応する。
「…………そう思いたいのなら、どうぞご自由に」
 しかし、尚貴は挑発に乗ることもなく敢えて静かな声で答えた。
 お互いに表情を取り繕っているものの、無言のまま腹の探り合いを続ける。二人の間の空気がどんなに張り詰めようと構ってはいられいない。
「―――――ああ、もうっ!」
 それを破ったのは他でもない、間に挟まれた蒼だった。借りてきた猫のように大人しかった先ほどまでの気配は欠片もない。
「何でこんなに空気が悪いんだよ! 義孝さん、喧嘩するために呼びに行かせたの!? ――あんたも、突っかかる返事をするな!」
 きっと睨んでくるその表情に押され、尚貴は呆気に取られた。窘められた感じがしないのは、その表情が必死だからに違いない。
 命令口調で言われたのも初めてなら、こんな子供じみた反応も目新しい。今朝からくだけた口調になっていたのには気がついていたが、こちらのほうが本来のものなのだろうと思う。
 喉で発した笑いはどちらが先だったのか。
 二人の大人は笑い声を響かせた。



 自分をダシにして好き勝手振舞う大人二人をこの場に残し、蒼は憮然とした表情でお茶入れに立った。
 コーヒーにしてくれ、と後から叫んだ希望が通っているかはまったくわからない。
 先ほどまでの一触即発なムードは消え去り、二人は改めて向き直った。
「やれやれ。怒られたことだし、真面目にやるか。―――煙草は?」
「どうぞ。こちらも吸わせていただきます」
「……それ、やめろ」
 煙草を口に咥えかけた尚貴は動きを止め、溜息をついた。片眉を跳ね上げた相手に渋い顔で物申す。
「その丁寧語やめてくれ。そんなものをプライベートでも使われたくない」
 問えば、自分より一つ下だという答えが返ってきた。それを聞いて尚貴はにんまり笑い、年上の権限だなと嘯く。
 天野は苦笑いを浮かべ、胸ポケットから煙草を取り出した。差し出されたジッポから火を貰い、白い煙を吐き出す。
 あの張り詰めた空気は今の彼にはない。瞬時に雰囲気を変えた男に、尚貴は興味を持つ。それは育ちから来るものなのか、彼の立場がそうさせるのか。彼もまた年相応という言葉が似合わないのは確かだ。
「敬語を使い慣れているのは、仕事柄?」
「そう。慇懃無礼にも使えるから、便利なんだよ」
「確かにな。会った早々に喧嘩をしかけられたし」
「あいつを拾った理由を聞いていないものだからな。男に手を出さないと保証されたわけじゃない」
 横目で見られ、尚貴は肩を竦めた。どうやら例の店に出入りしていたことまでばれているらしい。
「とりあえず安心しておけ。今のところ手を出す予定はない」
 うっそりと笑えば、天野が渋い顔をして黙り込んだ。
 微妙な表現を用いたのはこの男の反応を見たかったからという程度で、大意はない。
「あいつの保護者役も大変だろう」
「保護者と呼ばれるほど大層な者でもないな。あいつは一応預かり物でね。どちらかと言うと監視に近い」
「監視……ね。また物騒な言葉が出てきたもんだな」
 未成年であることだし、彼の親に頼まれたと考えるのが無難なだろう。しかし、蒼は監視を頼まれるような人物だろうか。それほど素行が悪いわけではないと思うが、と浮かんだ言葉はたちまち自身の苦笑に替わる。
 あの店で男を手玉に取ろうとする素行が普通であるはずがない。
 蒼のしていたことをもし天野が知ったら、恐らく首に縄をかけてでも大人しくさせるだろう。そこまで考えた尚貴に、新たな疑問が浮かんでくる。こうして迎えに来るほど目を光らせているのなら、なぜ、あんな店で蒼は働くことができたのだろう。
「……人がいないところで何の話をしているのかと思えば」
 呆れた声音に振り返れば、蒼が近づいてくるところだった。見ればどこから探してきたのか手には盆を持ち、コーヒーカップを三客乗せている。
 ソーサーとともに微かな音を立てることもなくそれぞれの前に置き、蒼は先ほどの位置に腰を下ろした。
「お前、本当に俺よりも物のある場所知っているだろう」
「箱のまま仕舞い込んでるからそう思うだけでしょう。結構いろいろな物あったよ? 麺類とか、ほとんど手をつけていないままのやつ。お歳暮の熨斗がついたままのとか……」
「ああ、そんな物もあったか」
 言われて思い出したという程度のものだから、存在すら忘れていた。そもそも送ってくるのが祖父や出版社関係だから、余計に興味あるものとは思えなかったのだ。
 とりあえず放り込んであるものならば、腐る心配はないと判断したからだろう。酒だけは、きちんとサイドボードの中に並んでいる。
 おまけのように告げると、蒼は呆れた、と溜息を洩らす始末。
 そのままくだらない話が続きかけたそのとき、静かな声が尚貴の名前を呼んだ。
「宮古さん」
 発しかけた音を飲み込み、尚貴は声の主を振り返る。真っ直ぐにこちらを見つめるそれに、尚貴も思わず居住まいを正した。
「蒼をしばらく預かって欲しい。どこにも出さないで、ここに閉じ込めておいてくれ」
 彼の真意を測るために見返しても、向けられた視線は揺るがない。冗談などでこんな要件を口にするような相手でもないことは、この短時間でもわかる。そして、理由を簡単に話すような相手ではないことも。
 蒼を預かることに異存はない。もともと天野の迎えが早すぎたのだ。
 あっさり頷くのは簡単だが、ここは有利に事を運ぶべきだろう。そう判断した尚貴は、自然な溜息をついてみせた。
「いいだろう。ただし、こちらの条件を呑んでもらおうか」
「……任意なしに手を出されるのはごめんだぞ」
 結局そこに話が向かうのか。
 戻された話題に、尚貴は脱力した。蒼にいたっては言葉もないというように、両手で顔を覆っている。
「生憎だが不自由はしてない。彼のキャラクターを観察しても良いか? 小説のモデルに使いたい。あの店とか、そういったプライベート的な設定は使わないと約束する」
「後者を守ってもらえるなら。前者については本人と話し合ってくれ。それこそ蒼のプライベートだからな」




   novel   




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送