三度目の運命 =4=





 翌日、尚貴が目を覚ましたのは正午を回った頃だった。唯一の寝台での上で伸びをして、床へ降り立つ。

 祖父がオーナーのこのマンションは、二十階建てで三部屋を基準としたファミリータイプとなっている。
 エレベーターは高層用と全階用の前三基で居住者利便を図り、さらには下まで降りていられないだろう高層階のためにダストシュートは完備。また、駐車場にはシェルターが用意され、横から吹き込むような雨以外は凌げるようになっているのがウリでもある。
 尚貴の部屋はちょうど真ん中の十階奥の角部屋にあたる。ダストシュートは使えるし、エレベーターで下に行くにも不便とは感じない高さだ。
 しかも日当たりは良いし、廊下を通る人の気配も気にならない。売ればそこそこの値がつくだろう部屋は、祖父が不動産会社に探させた結果だ。
 誰かの気配のする場所で何かに没頭することは、その誰かにすべてを許したことになる。だから、尚貴はこのマンションを自分だけのテリトリーにしていた。
 入ったことがあるのはせいぜい祖父の手の者だけ。夜の相手を招いたことは当然なく、携帯でのみ繋がっている。
 一人暮らしである尚貴の使い方といえば、三つある居住空間は寝室、仕事部屋、そして資料部屋という名の物置。誰かを呼ぶつもりもないから、すべてが有意義なスペースを残していた。
 その生活が昨夜を境に一変した。
 現実は小説よりも奇なり。
 まさに、昨夜の出来事を一言で表すならこれしかあるまい。




『―――――アオ、です』
 本名を聞いた尚貴に、彼はプレートと異なる名前を告げた。”SOU”とアオ。連鎖反応で「蒼」という字が浮かんだ。
 音読みと訓読みで名前を区別するなんて単純だがそれだけで別人になれる。ああいった店で働くには本名とかけ離れていないほうが馴染み易い。
 苗字を抜かして答えたのは自分の正体をすべて明かす気がないという表れだろうか。それを証明する様に車の中での短いやり取りで得た情報は数少なかった。
 蒼が一人暮らしをしていること。
 年齢がやはり未成年であること。
 そしてあの店に理由があっていたこと。
 最後のは誘導尋問のような形で答えさせ、それからの会話はマンションに着くまで成立しなかった。
 好奇心の強い性格だとの自覚があっても、自分から抱え込む真似だけはすまいと思っていた。――すでに過去形で語らなくてはなるまい。
 友人に連れて行かれた店の従業員と違う場所で出会い、追っ手から彼を匿おうとしている。彼の背後関係がまったくわからない状態だというのに。小説にありがちな、事件に巻き込まれた主人公のようだ。
 自分は小説を書くのが仕事であって、まさかそれを体験するとは思っていなかった。その一方で不思議と次を待っている自分がいる。この歳になって、新たな一面を発見したようなお得感があるのだから、我ながら軽いと苦笑してしまう。
 寝室の扉を開け、廊下に出た尚貴は目を見張った。輝くばかりの――とは言いすぎだが、明らかに就寝前とは廊下が違う。
 眠った時刻は彼のほうが遅かっただろうに。
「……拾い得だったかな」
 呟いて、すでに先ほどまでの言葉を撤回している自分に苦笑した。




 昨夜、尚貴が蒼に出したとりあえずの条件は単純なものだ。
 掃除、洗濯、炊事をきちんとこなすこと、である。
 どれも気まぐれでしかやろうと思わない類のものだ。掃除はしなくても死なないだろうし、洗濯もそうだ。炊事だけは生き延びるために必要だが、それだけのこと。炊事をするために思いついたアイディアが消えるなんてのは遠慮したい。
 しかし実際に生活をするとなると欠けさせることはできないし、だからといって他の人間の手に任せるつもりもない。仕事場でもある以上、この場所に自分以外の気配を感じたくないのだ。
 せっかく拾ったのだから、せいぜい役に立ってもらうことにしよう。嫌そうな顔をさせるのも面白そうだ。
 そう思っていたのもつかの間、尚貴の予想は裏切られた。尚貴の条件を聞いた彼は、「それだけ?」と小さく首を傾げたのである。
 どうやら彼は尚貴の条件を真面目にこなそうとしているらしい。
 うっすらと曇っていた廊下は磨かれているし、この調子なら部屋中を任せても大事には至らないかもしれない。
 リビングに行くと、コーヒーの匂いが漂ってくる。見ればダイニングキッチンのほうでなにやら動く影があった。自分以外がその場に立っているのを、尚貴は不思議な面持ちで見やってしまう。
「あ、起きたんだ? 勝手に使わせてもらってるよ」
 人の気配に敏いのか、調理台に向かっていた蒼が声をかけてきた。動かしていた手を止め、身体ごと振り返る。
 彼は店に出るための制服ではなく、尚貴が貸し与えた服を身につけていた。見た目通り細いらしく、尚貴のサイズでは布が余っている。
 一瞬男の部屋に何の用意もなく泊り込んだ女の図が浮かび上がり、尚貴は溜息をついた。貧困な想像力にもだが、何よりもそれを蒼に当てはめた自分に脱力してしまう。
 尚貴の心境を知るはずのない蒼はというと、マイペースに手元を動かしていた。彼の持つものがフライパンであることに気がつき、尚貴は呆然と口を開く。
「……それはなんだ?」
「朝ご飯以外に見えるなら、眼科に行ったほうがいいかもね」
 あっさりと受け流し、蒼は再び食事の支度へと取り掛かる。あまりにも慣れたそれに尚貴がその場で立ちすくんでいると、包丁の音が止み、蒼が肩越しに視線を寄越した。
「とりあえず、顔洗って着替えてくれば?」



「……材料、そんなになかったはずだが」
 リビングに戻った尚貴は、目の前に広がる光景に思わず呟いた。
 それもそのはず、米は炊かれ、味噌汁は湯気を立て、どう考えても蒼の年代では作らないだろうおかずも並んでいる。
 食器がまともに使われていなかったことを見越していたようで、彼は洗いなおしたそれに食事を盛り、尚貴へと差し出した。
「確かにあまりなかったね。賞味期限が切れた卵とかさ」
「…………」
「冷蔵庫にあったやつは部分的に使って、駄目なものは避けさせてもらったから。できればもう少し調味料があると嬉しいんだけどね」
 大学生のときならばともかく、今の尚貴は手の込んだ料理をしようとは思わない。あるのは醤油と塩と胡椒と油と。それだけで食生活には事足りる。
 揃っているのは炊飯器とレンジとポットのような文明の利器のみ。置いてある調理器具も大きなフライパンと底の深い鍋とやかん位しかない。
 いただきます、と呟けば、一瞬の間を置いて呼応する言葉が返ってきた。味噌汁を一口含み、久しぶりの味だと目を細める。
 もくもくと箸を進めていた尚貴は、手持ち無沙汰にこちらを眺めている蒼に気づいた。問うような視線を向けると、彼は頷きコーヒーを手に示した場所に座る。
 そういえば、こうして誰かと向かい合って食べるのは久しぶりだ。大概夜はバーで会うため、隣り合うことが多い。
「料理するの?」
「基本的にしないな。たまに立つこともあるが、大体レトルトで終わる。食べたければ外のほうが美味いし、締め切りが近ければ自分で作ってる暇なんてない」
「……彼女とかは?」
 この部屋に逗留することを気にかけたセリフなのだろうか。
 蒼の躊躇いに首を傾げながら、尚貴は肩を竦めた。
「訊いたこともないな」
 後腐れのないタイプを選ぶと、必然的に家庭的ではない相手が多くなる。
 台所の話をするような女はその先のことまで考えているだろうし、それに応える気持ちを尚貴は持っていない。
 だいたい、あの長い爪を持つ人間に身の回りのことができないだろう。
「身なりを気にする今時の女に飯を作れといっても無駄だな。せいぜい腹の膨れないケーキとかだろう。それも食いたいとは思わないが」
「うわ、差別的」
「正直な感想だ。アクセサリーとしては役立つ長い爪も、実生活には何の恩恵ももたらさない。あとは、あれだな。見栄で不味い物を出されるより、作らせるよりも自分で適当に作ったほうがまだ食える」
「……へんな理屈」
「そうか? だから男でも女でも、毎食作れる相手を俺は尊敬するよ」
 納得がいかない、と唇を尖らせる蒼に尚貴は小さく笑った。
 自分にできないことをする人間に対し、賞賛を贈るのは簡単だ。それをどうやって自分の生活に取り込むかで成長が決まると尚貴は考えている。
 そして、それが自分に向いているかを見極めるのも一つの道だとも思う。
 尚貴の場合、後者の立場を選んだわけだが。
 並べられた食事をあらかた片付け終わったところで、蒼が話を中断する。
「コーヒーでいい? それともお茶にする?」
「お茶なんかあったか?」
 賞味期限は切れてなかったよ、と言いながら蒼が立ち上がる。その後姿を見ながら尚貴は苦笑を浮かべ、傍の煙草へと手を伸ばした。
 蒼がこの部屋に来て1日も経っていないのに、彼のほうが自分よりも詳しいのはなんとも複雑だ。何より、彼の行動を甘受している自分を不思議だと思う。あれだけ他人の気配を拒んでいたはずなのに、蒼には不快感が沸かないのはなぜだろう。
 拾ってきた猫と変わらない存在として、自分は捉えているのか。
 思考へと潜り込んだ尚貴の前に、蒼が淹れたてのお茶を置く。だが、自分の考えに入り込んだ尚貴は、柔らかくなった蒼の表情に気づかなかった。
 湯飲みから湯気が上がらなくなった頃、邪魔がやってくる。部屋中にチャイムが鳴り響いた。
 反応の遅れた尚貴を、蒼は自然な動作で制す。
「いいよ、僕が出る」
 玄関のほうへと向かうその姿をぼんやりと見送った尚貴は、はたと気がついた。
 彼は隠れている身ではなかったのか。
 なぜ彼をこの部屋に入れたのか、その理由はすっかり頭から抜け落ちていた。恐らくは蒼のほうも。
「……っおい!」
 尚貴は慌てて立ち上がり、その後を追う。
 乗り出した時にはすでに遅く、蒼の目の前に人影があった。




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