三度目の運命 =12=
すっかり陽が落ちた午後七時。スーツに身を包んだ尚貴は指定された場所へタクシーで乗り付けた。一般客に開放している部屋はないという話で有名な割烹料理屋である。
広い敷地を白塗りの壁で覆い、内には竹といった背の高いものを植樹した建物は、昔ながら繁栄し続ける華族の屋敷という印象を抱かせる。
ゆっくりとした足取りで鴨居をくぐると、待ち構えていた仲居に迎えられた。彼女たちは店の雰囲気を裏切らない着物姿で給仕をするらしい。
見たところ、中心に立つ人物が一番の責任者のようだ。店が違えば美人女将ともてはやされるだろう彼女の年は三十を越えた辺りだろうか。
尚貴より年上なのは想像できるが、具体的な年齢までは読めない。頭を下げる角度などからして、礼儀作法をきちんと身に付けていることがわかる。
ご案内いたします、と静かに促され、後に従った尚貴は、周囲に目をやりながら歩を進めた。
木の温もりを醸し出す造りは現代技術をまったく感じさせず、時代の流れに取り残された空間がそこここに残されている。
日本家屋の造りである部屋はその三壁を埋め、唯一の出入り口を障子で塞ぐ。こうすることで部屋に近づく人影は中に知れるため、人目を避ける密談に有用な場所だという評判もある。部屋数も少なく、もちろん庭園はそれぞれ廊下からしか見ることはできない。
しかし、堅牢な壁で囲っているものの、忍び込んで盗聴器などを仕掛けることだってできるだろう。それなのに有権力者が愛用するというのは、何か他に理由でもあるのだろうか。
庭を横に長い廊下を歩き、やがて彼女は入り口から程遠い和室の前で起座の姿勢をとった。
「お連れ様がご到着なさいました」
中に声をかけた彼女は音も立てずに障子戸を引いた。仲居に頷き入室すると、そこにはすでに待ち人がいる。天野と会うのは久しぶりという感がある。一月は確実に顔を合わせていない。実際は、これで二回目なのだが。
今日は仕事帰りなのか、社員章らしきものが左襟に飾られていた。それは彼を一般社員に見せるどころか、高位の役職についているような迫力をプラスする。
驚いたことに、彼は胡座ではなく正座で尚貴を待ち構えていた。椅子に慣れた世代はとにかく座敷と無縁な生活をしているものだ。場合によっては一分ももたないという話を聞くが、彼はそれに当てはまらないらしい。
尚貴の背後で襖が静かに閉められる。それを確認してから天野は口を開いた。
「……痩せたな」
それほどあからさまに頬がこけているという事か。眉を顰めるその仕草に芝居は感じられない。だからこそ、尚貴も肩を竦めることで彼の心配を軽く流した。
「締め切りが近いとこんなもんだ。あと、筆がのってる時な。何か他の行動をすると浮かんだ文章が消えていくんだ。だからキリがつくまでは食事もろくにとらない」
「作ってる時間がもったいないって?」
「買いに行く暇もな」
文章が生きものだと思うのは、頭から存在すら消えてしまうときに痛感する。ふとした拍子に文章が浮かんでも、何か違うことを考えた瞬間すり抜けてしまう。出来上がった瞬間に捕らえなければ、二度と出会うことはない。そう、人との出会いと同じように。
初めて入った店で蒼と出会い、そこから逃げ出してきた彼を拾い、そして尚貴の視界から姿を消されてしまった。
失って始めて気づくその存在感に、尚貴はようやく自分の感情を認識したのだから、何とも間抜けな話だ。
らしくもない感傷が胸を過ぎるのに、尚貴は内心で苦笑をする。
先日、電話をかけた時点では蒼に関する情報を集めようと思った。だが、尚貴はすぐに方向転換を図り、すでに新たな決意を固めている。
蒼を傍に置くために、まずこの男と対峙する。
もしも蒼が彼のもとにあるのならば、尚貴は天野という檻を破ることから始めなければならない。それができなければ蒼にようやく認めた想いを伝えるどころか、たどり着くことすら不可能だ。
促されるまま上座に腰を下ろし、尚貴もまた正座をする。畳のない生活をして久しいため長時間の自信はないが、ある程度は耐えられるはずだ。
同じことを思ったのか、天野が苦笑混じりに声をかけてくる。
「無理しなくてもいいぞ」
「それはお互い様、ということだな。最初のうちはきちんとするさ」
茶化すような言葉を軽く交わし、居住まいを正す。
「では、俺もそれに倣うとするか」
含んだ言い方に視線を向ければ、彼は無言で畳へ降る。流れるような動作で両手を畳についたかと思うと、突然頭を下げた。額を畳に擦り付けんばかりの叩頭礼に、尚貴は言葉を失う。
「……天野?」
どう反応して良いのかわからず、また、どういう言葉をかけるべきかもわからない。戸惑う尚貴をよそに天野が口を開いた。
「このほどは多大なるご迷惑をおかけいたしました」
耳に届いたのは、予想外の言葉だった。
「こちらの都合で宮古さんを巻き込み、あれを押し付けたばかりか病人の世話までさせてしまい、大変申し訳ありません」
「天野!」
やめろ、と強めに声をかければようやく天野が顔を上げる。その視線は真っ直ぐに尚貴へと向けられたが、瞳の奥に秘めた感情は窺えない。目の前の相手に自分の抱える何かを読み取らせないだけの技量がそこにある。
その視線を受け止めながら、尚貴は頭を忙しく回転させていた。
相手に対して謝罪以上の何かを押し付けてくる口上を遮ったまではよかったが、その後の言葉がうまく続かない。
天野の言う都合とは何を示すのか。
そして「巻き込」まれたのは、蒼を預かったことだろうか。
天野の言葉を探っていると、敢えて目を反らしていた疑問までもが浮かび上がった。――そもそも、蒼は何のせいで追われる羽目になったというのか。
だが、尚貴が指摘したのは別の部分だった。
「……とりあえず、その敬語と『さん』付けをやめろ」
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