言葉のない約束



 コーヒーの用意をしている間も頭をフル稼働させ、蒼は彼女をどこで見かけたのかを思い出した。つい先日のごたごたのときに、蒼の働く店に尚貴がエスコートしてきた女性。それが彼女だと確信する。

 同じ部屋に住むようになっても、尚貴の口から彼女についての説明は一切ない。蒼も敢えて彼女のことに触れようとは露ほどにも思わなかった。

『後先考えずに動きたくなるほどおまえに惹かれてるよ』

 たった一言が、蒼を支えている。

 心配することはないのだと、そう思えるから。

 三人分のコーヒーと共にリビングへ向かうと、二人はローテーブルを挟んで座っていた。その上には書類と思しき紙がテーブルいっぱいに広げられている。

「ありがとう。気を使わせてしまって、ごめんなさいね」

 蒼に気づいた彼女は書類をかき集めると、それを問答無用で尚貴へと押し付ける。

「ほら、ちゃんと見なさいよ。あんたのご依頼なんですからね」

「……依頼主にはもう少し丁寧に対応するべきじゃないのか?」

「あんた以外にはちゃんと丁寧よ」

 知人ではありえない、独特の空気が二人の間に存在しているような気がする。もしかして蒼がキッチンにいる間ずっと、このテンポで会話をしていたのだろうか。

 空けてもらった場所にコーヒーを置き、尚貴に促されるまま隣りに腰を下ろす。躊躇したものの尚貴の手にある書類を一瞥した蒼は、描かれた図に思わず呟いた。

「……設計図?」

 否、設計図ともまた異なる図面だった。

 不動産関係の広告でよくある間取りだけではなく、部屋の細部を記した図と文字が白い紙を埋めている。一枚につき一部屋のようで、もしかしてこの紙の枚数分このような図が描かれているのだろうか。

「この紙は全部こいつの描いた部屋の間取り図みたいなもんだな」

「ちょっと、もう少しまともな紹介をしてよ! 本当に失礼な男ね」

 名前も紹介しない簡素な言葉に、実希子と呼ばれた彼女は抗議する。そして改めて蒼に向き直ると、自ら紹介を始めた。

「順序が逆になってしまってごめんなさいね。安藤実希子といいます」

 すっと差し出されたのは一枚の名刺。そこには氏名と企業名、そして連絡先とが書かれている。

「安藤設計事務所……?」

「ええ、父の会社で働いているの」

「こいつのところは一家で建築関係の仕事についてるんだよ。このマンションの設計がこいつの父親で、うちのじい様関係の知り合いなんだ。父親と兄貴が建築、母親とこいつが空間設計の専門」

「……ま、いいわ。蒼くんの前だから許してあげる。命拾いしてよかったわね」

「おまえに殺されるようじゃ人生ろくなもんじゃないな」

 わざと横柄に振舞う実希子に対し、尚貴は鼻で笑う。むっと睨まれてもそ知らぬ顔でやり過ごし、気の置けない言葉の応酬を楽しめるほど、尚貴は彼女に気を許しているらしい。

 蒼が二人の姿を見かけたとき、二人はただ単に食事をしていただけだったのかもしれない。それとも、彼女ともそれなりの付き合いがあったのだろうか。

 忘れていた胸の痛みが疼き始める。そっと溜息をつこうとした蒼は、突然渡された設計図に驚きの声をあげた。

「わっ……何!?

「おまえもぼうっとしてないでちゃんと見ろよ。適当に選んで後悔しても知らないからな」

「そうよ、あなたには迷惑かもしれないけれど、たぶん一生のことになるだろうし」

「ずいぶんと余計なことを言ってくれるじゃないか」

「あら、本当のことでしょ。話を聞いたとき、兄貴と賭けまでしたんだから」

「…………」

 二人の中には共通の前提があるのだろう。主語がなくても会話が成立しているし、お互いに真剣に進めているのがわかる。

「あの……選ぶって……?」

 設計図を選ぶことと蒼がどう繋がるというのか。

 蒼は何も知らされておらず、二人の言葉をつなげてもその前提が見えてこない。

 一方、蒼の躊躇いに気づいた実希子は驚いた表情を浮かべたが、次の瞬間尚貴をきつい眼差しで睨みつける。

「あんた、まさか何の話もしてないの!?

「――――……そうだったか?」

「だから、何の話?」

「何寝ぼけたことを……そうだからさっきの質問が出てくるんでしょうが!」

 自分にも関係しているらしいのだが決定的な情報が与えられず、頭は混乱しっぱなしだ。

 呆れていることを隠さない実希子と、過去の行動を振り返る尚貴を交互に見遣る。

「……実希子、ちょっと待ってろ」

「ごゆっくりどうぞ。こっちも勝手にやらせてもらうわ」

「任す」

 実希子の返事を聞く間もなく、尚貴は蒼の二の腕を掴んで立ち上がった。引っ張られる形となった蒼が実希子へ視線を向けると、彼女は「行ってらっしゃい」と笑いながら手を振る。

 腕を捕まれたまま蒼が連れて行かれたのはリビングから一番離れた尚貴の仕事部屋だった。扉を入った途端、嗅ぎ慣れた煙草の香りが蒼を包みこむ。

「尚貴さん?」

 背中から抱きしめられ、蒼は振り返ることが叶わない。肩には尚貴の額が乗せられ、蒼が見られる範囲は尚貴の頭だけだ。

 黙り込んでしまった尚貴を促すように、蒼は腰に回された腕に触れる。それでも尚貴からの言葉はなくて、思わず苦笑を浮かべた。

 バツが悪くなったのだろうと当たりをつけて、蒼は自ら話を振る。

「尚貴さん、あの設計図は何?」

「……新しい部屋」

「どこの?」

 告げられたのは、ここからそう遠くはない市街地の名前だった。

「そこに引っ越すの?」

 確認するように問えば、ようやく尚貴が顔を上げる。額の代わりに顎を引っ掛け、覆い被さるような体勢をとる。

「おまえ込みでな」

「……ふぅん」

 言ってくれなかったくせに。

 素気なく流せば、宥めるように尚貴の唇が耳朶に触れる。

「だから、悪かったって。じい様から生前分与された土地を、マンションにしようという話は前々からあったんだ。実際設計図もほぼ出来上がっていたしな。ここもそう不自由ない場所だから移る気はなかったんだが……他人に入り込まれたからな、ここは」

 正面玄関には管理人室があるものの、常駐というには程遠い。外付けの非常階段からは誰でも出入りできるし、監視の目が光るほどの警戒はない。

 現に蒼がこの部屋に初めて滞在したとき、尚貴の彼女と名乗る女性が玄関まで易々と入り込んだ。尚貴はそれを今でも不覚だと思っている。

 マンション入り口からしっかりとセキュリティがかかっていれば、少なくとも他人が押し入ってくる可能性は低くなる。

 そこで造ろうと判断するところが尚貴らしいというか何というか。

「ついでに言うと、警備システムは高宮に依頼した。秋津や天野が容赦なく請求してきたおかげで予算オーバーだ」

 どうしてくれる、という声は言葉の中身ほど困った様子を見せていない。当然それに見合う採算は取るつもりなのだろう。

 甘い拘束の中で身を捩り、正面から向き直った蒼は恋人を見上げた。

「あのとき実希子さんと会っていたのは、打ち合わせをしていたから……?」

「あのとき?」

「……うちの店に来たとき、一緒に居たのは実希子さんじゃないの?」

「ああ、あれか」

 そういえば一度連れて行ったな、と尚貴は苦笑する。

 蒼との距離を詰められない焦燥感と、彼に抱く欲望を抑制し続けた日々。それらに囚われ続けた尚貴は一度だけ蒼の前から姿を消した。ホテルに部屋を取り、蒼と顔を合わせないことで頭を冷やすために。

 そんな時、安藤兄からマンションについての連絡が入った。打ち合わせついでに食事を取り、同席していた実希子に半ば脅されながら蒼の働く店へ向かったのである。

「あれは、あいつがおまえを見てから部屋を設計するって聞かなかったからだ」

「―――……僕?」

「水周りはおまえのテリトリーだからな。おまえがどれくらいの身長で、どんな行動をする癖があるのか、それを見たがっていたんだよ。遠目からでもいいから観察して、イメージを膨らませたかったんだと」

 呆然と見上げる蒼に、彼は苦笑する。

「あいつの描いてきた図面は、それなりに気に入ると思うぞ。何せおまえ仕様だしな」

 追加注文をするなら今のうちだぞ。

 促すような言葉が蒼の心を震わせる。

 だがそれを素直に喜べる身ではないことを、蒼は十分理解していた。

「…………の?」

「ん?」

「本当に、いいの?」

 躊躇うのは、自分に自信がないからだけではない。

 高宮に属しながら自身の要求を一番に通すことは不可能に近く、こうして尚貴と同じ屋根の下に居られることすら奇跡だと蒼は思っている。

 高宮の仕事を請け負う以上、いつまでも綺麗な体のままではいられない。場合によっては、望まない事態だってあり得るのだ。実際彼を裏切る状況になったとき、尚貴の傍に居続けられるだろうか。

「僕は、貴方を傷つけるかもしれない……」

 その自分を、彼は更に懐へと抱えるというのか。

 不動産屋が抱えるような物件ではなく、蒼の動線を考慮して設計された、世界にたった一つの部屋。しかも、買い換えられる家具とは違い、余程のことがない限り動かすことのない場所そのものを。

 それ以上言葉を紡ぐこともできず、蒼は顔を俯かせる。するとそれを咎めるように尚貴の指がゆっくりと蒼の頬を撫で上げた。促されるまま視線を上げると、呆れた表情の尚貴がいる。

「それがどうしたっていうんだ」

「……尚貴、さん?」

「あのな、俺が何も聞かずに高宮の協力者になるわけないだろう。どんな仕事をしようと、おまえが傍にいるのなら構わない。俺は、おまえを傍に置いておくためだけに頷いたんだ。唯一のメリットなのに、おいそれと契約を変更されてたまるか」

 それに、と尚貴は言葉を区切る。揺れ動く瞳を向けてきた蒼に力強く断言する。

「帰る場所があれば、意地でもおまえは生き残るだろう? 何があっても、な」

 それは蒼に向けただけではなく、自分自身にも言い聞かせるような言葉だった。

 蒼が胸に抱く不安は、尚貴にとっても同じことである。彼が自ら心を裏切らない限り、尚貴は蒼を迎え入れるつもりがある。

 形振り構わず、俺の元に戻ってこい。そう言外に告げる尚貴の眼差しは真摯なものだった。

「……はい」

 尚貴のために、そして自分のためにもここへ帰ろうと思える。

 自分を迎えてくれる人がいる。それがこんなに力強いことだとは考えもしなかった。

 声だけでは物足りなくて、蒼は目前の広い胸へと飛び込んだ。ぎゅっとしがみ付けば、力強い腕が背中に回される。僅かな隙間も許さないというように抱き寄せられ、蒼は泣き笑いの表情を浮かべた。

 気配が伝わったのだろう、からかい口調の呟きが落とされる。

「泣き虫」

「……誰の、せいだよ」

 無意識に甘えを含んだ声音で返してしまい、自分のそれに赤面する。窺うまでもなく、尚貴が一瞬の間を置いてくつくつと笑い出した。

「―――……っ!!

 直接伝わる振動に自分の行動を改めて意識させられる。我に返ってしまえば面映くて、蒼は突き飛ばすように尚貴から離れた。

 居たたまれなくてリビングへ戻ってしまおうと踵を返した蒼を、尚貴の言葉が追いかける。

「離さないから安心しろ」

 振り返れば不敵な表情の尚貴がそこにいる。

 尚貴に応えるように、蒼は極上の笑みを浮かべてみせた。




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