言葉のない約束



 それは、暦だけでなく気候も春めいてきたある日のこと。

 コン、コン。

 尚貴の仕事部屋をノックした蒼は、返事を確認してから扉を開ける。途端に煙草の煙が廊下へと漏れ出てきた。

 一晩中籠もりっぱなしだったこともあって、部屋中に煙草の匂いが充満している。風に邪魔をされるからという理由で窓を開けること自体が少なく、ならばと買ってきた空気清浄機は必至に稼動するも効果はあまり見られない。

 体に悪いと思いつつも、これが彼の仕事態勢なのだからと蒼は黙認中だ。その代わり、彼が部屋を離れるときは思いっきり窓を開け放すことにしている。

 こちらに背を向けたまま、机にかじりついている部屋の主に蒼は話しかけた。

「尚貴さん、お昼どうする?」

「ん、ああ―――……軽いもの」

「了解。来るときに窓開けてきてよ」

 今日のようにリクエストがあるのは、まだ仕事で追い込まれていないということ。

 ノックしたときに反応があれば話しかけるし、なければ話しかけない。これが一緒に暮らし始めた二人の暗黙のルールだ。

 キッチンへ戻り冷蔵庫の中身を確認して、何にしようかと悩み始める。一人のときは適当だし、尚貴が仕事中なら伸びない物を選択するのが常だ。

「キャベツもあるし……久々にパスタにでもしようかな」

 味が重くならなければ許容範囲だろうと目星をつけて、まずは鍋にお湯を沸かす。その間に必要な食材を揃えて、と冷蔵庫にかけた手を取られた。ついで届いた煙草の匂いと背中越しの体温に意識を奪われ、振り返る間もなく後ろから抱きしめられる。

「尚貴さ……っ」

 顎を掬うように持ち上げられ、唇を奪われた。じっとりと熱を映すようなそれに、蒼は迷わず瞳を閉じる。

 もう何度目のキスだろう。

 彼が初めてだとはもちろん言わない。だが、こんなに意識を奪われるようなキスは彼とだけ回数を重ねている。

 煙草と、無精髭と、そして覚えた気配。覚えていられないほど交わした口づけは、その度に尚貴という人物を教え込まれているのかもしれない。

 腰に回された腕に手をかけると、蒼の体が強引に反転させられた。背中を冷蔵庫に押し付けられ、鼓動が近いところで重なる。

 彼の利き手が腿を伝い、そろそろと上を目指す。それに応じ彼の首に回そうと腕を持ち上げた、その時。

 ピンポーン。

 滅多に鳴らないチャイム音に蒼の腕は空中で止まり、尚貴もまた這わせていた指を止める。

「―――誰だ、まったく」

 舌打ちとともに蒼を残して玄関へと向かうその後姿を、蒼は冷蔵庫に背を預けて見送った。途端に耳についたカタカタという音に、鍋を火にかけたままだったことを思い出す。慌てて火を止めた蒼は火事にならなかったことに安堵し、力が抜けたようにその場に座り込んだ。

「……やばい、かも」

 どんなときでも気を張り続けることが癖になっていたのに、彼の前だとそのこと自体を忘れてしまう。それだけ彼のことだけに意識を奪われる自分がいる。

 そんなこと、今までなかったのに……。

 無意識に指を唇へと押し当てた蒼は、こちらに近づいてくる二人分の足音にはっと顔を上げた。扉越しに届く声音は聞き慣れたものと、女性のもの。諍いのようなやり取りは、扉が開かれた時点でも続いていた。

「ホント失礼な男よね、あんたは……って、あら」

 先陣切って現れたのは、尚貴と同年代だろう小柄な女性だった。キャリアスーツで身を包み、髪を後ろで一つに束ねた彼女に華美な派手さがない。

 どこかで見たことがあるような……。

 小首を傾げる蒼をよそに、彼女は歓声と共に蒼に向かって走り出した。その勢いに押されたせいか、蒼は立ち上がるタイミングを逃してしまう。

「貴方が、蒼くんね? ようやくのご対面だわ!」

「あ、あの……」

「近くで見ても肌は綺麗だし、髪の毛もサラサラ。生まれ持った性質もあるんだろうけれど……ね、どんな手入れしてるの? それって楽?」

「ちょ……うわ、ちょっと待って……っ」

 伸ばされた手を払うこともできず、かといって為すがままにされる気もない。助けを求めて彼女の背後を見やると、顔を掌で覆った尚貴が扉の側にいた。

 助けを求めるように名を呼べば、あからさまな溜息をついて近寄ってくる。

「実希子、ソレが脅えてるからちょっと離れろ」

「ま、何よそれ! 女性に抱きつかれて喜ばない男なんていないでしょ。ああ、嫉妬するってんなら素直にそう言いなさいよ」

「あ、あの……」

「おいっ、抱きつくな!」

「煩いわね、これだから心の狭い男は嫌だわ。蒼くん、本当にこんな男でいいの? 別れるなら早いほうがいいわよ」

「余計なお世話だ! いいから、離れろっ」

 蝉よろしく蒼に抱きつく彼女を無理矢理引き離し、尚貴がリビングへ強制連行していく。それを呆然と見送った蒼は、二人がまだ何か言い合うのを耳にしながら溜息を落とした。意識しながら呼吸をし、ゆっくりと立ち上がる。

 女性相手に尚貴があんな風に反応する場面を初めて見た。おまけに尚貴と彼女の会話はマシンガンのようで、初対面でしかも状況を飲み込めていない蒼には言葉を聞き取ることはできず。

 蒼といるときの尚貴は年上の態度で接するし、時に意地の悪い行動を取ることもある。だが、今のように言葉の応酬しあうようなことはない。

「……ああ、そうか。尚貴さんが他の人と喋るところを見ることは少ないからだ」

 考えてみれば、このマンションに来た人間は蒼の知っている限り極めて少ない。元々人を家に招く趣味はないと言い切る尚貴だから、それもそうかと納得をしていたのだが。

「―――あれ?」

 マンションに招いた客人は蒼がほとんど取り次いでいるため、顔と名前は一致している。だが、彼女に見覚えがあるのはどうしたことだろうか。

 しばらくして尚貴がバツの悪い顔でキッチンへと戻ってきた。記憶を遡らせていた蒼は、頬を撫でる感触にようやく意識を尚貴へと移す。

「テンションの高い奴で悪いな。驚いただろう?」

「う、ん、大丈夫。尚貴さん、約束してたの?」

「ああ……してたみたいだな」

「してたみたいだな、って、また適当な」

「いや、本気で忘れてた。あいつから連絡を受けたのは今朝方だったし」

 寝ぼけて返事をしたせいで忘れていた。堂々と言い訳にもならないことを言う恋人に、蒼は頭が痛くなる。

 これでよく締め切りを守るものだと呆れるべきか、それとも公私の差が激しいのだと納得すべきか。

 一つ溜息をつくと、蒼は自分に触れる尚貴の手をとった。

「……コーヒーを出せばいい? お昼は少しずらしたほうがいいよね?」

「そうしてくれ。ああ、コーヒーは三人分な」

「三人? まだ誰か来るの?」

「いや、あいつと俺と、おまえの分」

「―――は? だって、僕は初対面……」

「いいから、頼んだぞ」

 尚貴は蒼の耳元に軽く唇を押し当てると、理由を説明することもなくリビングへと向かった。慌てて呼び止めようとした蒼だが、彼女に聞かれるのを躊躇してしまう。

「……なんなんだよ、もうっ」

 むっとした表情を浮かべた蒼は、その背に向けてべっと舌を出した。



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