路傍の花






「本日はここまでにいたしましょう」

「ありがとうございました」

 向かいの席でパタンと本が音を立てて閉じられたのを合図に、シュリは頭を下げる。その様子に、教師役を務めたバルース老人は柔らかな笑みを浮かべた。

 初対面のときから思っていたが、王族には珍しいほど腰が低い。己に過大な自信を持つ国民の多いユドラグ出身なのだから、鷹揚に頷く方が納得いくというものだ。

 シュリのほうが位は高いのだからと恐縮するバルースに、彼は「僕は教わる立場ですから」と首を振って拒否する。教える側に対する敬意がどこかになければ、教えそのものが軽く吹き飛んでしまう。そのことを彼は知っているのだろうと、老教師は判断していた。

 教科書を片付けていると、小さなノックと共に青年が静かに入室してくる。

 彼は部屋仕えとして側に控えている人物で、ラズライトという。歳は二十三と聞いているから、シュリとは七つ離れていることになる。勉強を望んだシュリのために教師を探したのも彼で、シュリとこの国との橋渡し役を勤めている。

 そして、密かに与えられていた任務はシュリの護衛と監視。しかしこちらは先日ちょっとしたきっかけで自らばらしてしまった。おまけにシュリの口から察していたことを告げられ、呆気に取られるという始末。自分のことを棚上げして驚くラズライトに「それが当然だと思う」とシュリの返事はあっさりしたものだった。

 暫くは己の失態に尾を引いていたラズライトだが、これを境に二人の距離が縮まったのはいうまでもない。

 彼のほかにセレンという侍女も控えているが、彼女はシュリの身の回りの世話を担う。我が子以上に年齢の離れているシュリを不憫と思っているのか、シュリに向ける視線は予想以上に温かかい。ただし、それが自分の役割に絡むことであれば別の話だ。特にシュリの衣装を嬉々として用意するその姿に、ラズライトですら口を挟むことはできない。

 二人の視線が自分に向いていることを知った彼は、優雅な一礼の後に笑顔を浮かべる。

「お勉強は終わりですか? お茶をご用意いたしましょう。今日は北の珍しい花茶ですよ」

「ありがとう。先生もいかがでしょう?」

「お邪魔ではありませんかな?」

「いいえ、ぜひどうぞ。もう少しお話を聞けると嬉しいです。ラズライト、用意してもらえる?」

 畏まりましたと一旦下がる彼にお願いしますと無意識に続け、シュリは視線で窘められた。

 上位の者が下位の者に対して軽々しく頭を下げるべきではありません。

 来国初日にラズライトから叱られた言葉が頭の中を過ぎる。このときシュリは「気をつけますが、貴方達も慣れてくださいね」と、逆に押しのけた。

 慣れないことは慣れないままでいい。自分に無理だと思えば、下位の者に譲らせる。

 傲慢な考え方だが、怪しまれる原因になることは少しでも排除しておくにはちょうど良い。以来、困ったことがあれば同じように押し通すようにしている。

 主従にしては珍しいやり取りに傍らの見学者は笑い、次に感慨深げに呟いた。

「もう一月ですか。早いものですね」

「ええ、あっという間でした」

 まだ長いと言えるほど時間は経っていない。それなのに年単位で遠く感じる。

 複雑な思いを胸に、シュリは微笑を浮かべる。

 シュリの母国ユドラグは、大陸内でも一、二を争うほどの長い歴史を持つ国だ。この大陸の中でも一つの王家がこれほどの王位を重ねるのは珍しく、建国より五百年を数える歴史を誇りとする。

 だが、その誇りゆえに自らの歴史を重んじ、過去に重ねて未来を判断する傾向が強い。良くも悪くも古き賢人の智恵と知識を基盤に全てを委ね易いその性質は、傍からすると鎖国的と映るものだ。

 それでも近隣諸国との付き合いはあり、一概にそうとも断定できない。二十年ほど前に西方の異国の血を引く娘が立后したことで、周囲のユドラグに対する政治的印象は変わりつつあった。

 しかしそれは表面上で、歴史を持たぬ国は国ではない、と驕る風潮は今なお残る。国外の人間を受け入れつつも、大多数の者が自分達とは異なるのだと一線を画していた。古くから伝わる善悪は変わらない。

 対して、ヴェルフィニという国は、歴史も浅くまだ数百年にも満たない新興国だ。現国王の代で領土は大幅に拡大し、今では他国が平伏すまでの存在となった。

 どの国とも肩を並べ、対等な立場で不可侵条約を結ぶほどに。

 ユドラグも例外ではなく、他国と同じようにヴェルフィニと条約締結をした。だがその水面下ではその勢力を警戒していた。

 徐々に力を増強するヴェルフィニは未知なる存在であり、脅威でもある。だがそれを悟られないよう「成り上がりの国」と呼び、蔑むことで自国の地位を保つ。

 冷戦という名の小競り合いが数年続き、その勝敗を喫したのが半年ほど前のこと。

 あわよくばと漁夫の利を狙う近隣諸国に唆され、軍勢をヴェルフィニへと侵攻させたのが原因である。慌てることなく迎え撃ったヴェルフィニ側は、ユドラグを心身ともに完膚なきまで叩きのめした。

 当然ヴェルフィニ側優位で停戦講和は進められ、交易権の拡充と王子の遊学という名の人質をユドラグに求めたのである。

 ユドラグ国王には一人息子しかおらず、彼をヴェルフィニが預かれば自然と互いの関係も変化する。そしてこの申し出を拒む程の国力がユドラグにはない。

「もうこちらの生活には慣れましたか?」

「はい、特に二人のおかげで」

「ラズライトは扱いにくいのではありませんか? あの男は言葉足らずの上、元来気を回すということが苦手ですからね」

「聞こえていますよ」

 タイミング良く、苦い表情のラズライトが戻ってきた。手にしていた茶器を手際よく使い、シュリとバルースへ花茶を給仕する。

 熱くなった器に気をつけながら持ち上げる。口に含む前に爽やかな香りが広がり、シュリは微笑を浮かべた。

「いい香り」

 口腔内いっぱいに広がる独特な風味が面白い。

「お気に召されましたか?」

「うん。癖もないし、僕は好きだよ」

「ではまたご用意いたします」

「わしも好きだぞ」

「……覚えておきましょう」

 長閑な会話の端で、シュリの脳裏を過ぎる影がある。

 バートリーとラズライトのように、自分にも気の置けない会話をする相手はいた。兄弟同然に育った彼に真実を告げられないまま、シュリはこの国に来てしまった。

 今、彼は何を思っているのだろうか。

 もう二度と会えない人物を思い、シュリの心は重くなる。

「シュリマール様? いかがなさいました?」

 窺うような声に、シュリは我に返る。

 今は一人ではなかったのだと今更ながらに思い出し、咄嗟に曖昧な笑みを浮かべる。

「ちょっと、先生の課題を思い出してしまいました」

「多いのですか?」

「……僕は本当に古語が苦手です」

 ユドラグとヴェルフィニは言葉が違う。

 一通りの会話はできるものの、普段の会話で出てこないような単語にはお手上げとなる。

 それを見抜いたバルースは、簡単な小説を教科書にシュリの言葉を完璧に仕上げることから始めた。

 今は子供が古語の勉強に使う書物を教科書としているが、専門書に到達するにはまだまだ時間がかかりそうだ。

「早めに古語を終わらせないと、シュリマール様待望のお時間はやってきませんぞ」

「……がんばります」

 シュリが首を竦める一方、ラズライトは首を傾げる。

「待望のお時間、ですか?」

「ああ、そうか。ラズライトにはちゃんと話してないね。僕は歴史を知りたいんだ」

「歴史……ヴェルフィニについて、ですか?」

「それと、ヴェルフィニから見たユドラグも」

 ヴェルフィニは話に聞いていたように野蛮ではなく、むしろ温かい国だと思う。

 確かに歴史は浅く、大国となるまでに武力を使うこともあったはずだ。だが、それはどの国も同じこと。シュリの母国であるユドラグも、小さな戦を仕掛け続けた事実がある。

「視点が違えば、国によって同じ出来事も異なった記述で残されますからな。物によっては伝承という形で残されていますし」

「ええ、せっかく時間があるのだから色々な角度から知りたいんです」

 このゆったりとした時がつかの間だと、シュリ自身が一番知っている。

 ユドラグの手によって密かに変更された脚本の結末。

『金または茶の髪を持ち、碧あるいは金茶の瞳で、十五前後の少年を城へ献上せよ』

 条約内容を提示された後、有力貴族へと回された極秘の触れ。

 その結果としてシュリが今ここにいる。

「そのためにも、がんばります」

 シュリがこの国に来ても、その後のことは誰も保障してくれない。死にたくなければ偽り続けろと言われた身だ。

 ユドラグの第二王子として振舞うこと―――それがシュリに与えられた役割だった。





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(H21.02.02)





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