三度目の運命 =16



 ネオンが煌く夜の繁華街。すでに時刻は午後十時に近づき、人々にはほど良い酒が残っている頃合だ。喧騒の中には、スーツを着たサラリーマンや大学生の集団が加わり、それらを勧誘する黒服の姿がそこらに見える。

 人の流れが多い場所から少し外れた場所で、尚貴を乗せた車が停車した。窓から見えるのは、それなりのサービスと金額が売りで、高級志向を好む人間が多々出入りしているという評判の知られたバーである。

「もうすぐ出てくるだろう。その横道の先が裏口だ」

 後部座席の窓を開けまじまじと店を見つめる尚貴に、隣から声がかかる。それを受けた尚貴の表情はどこか苦虫を潰したようなものだった。

「あいつ、また似たようなのをやっているのか」

「上がこの店を候補としてあげたとき、蒼自身が選択した。それをとやかく言う権利はあんたにない。納得できないのなら、このまま発車させるが?」

 その代わり、蒼との接触は今後一切なくなると思え。

 音にならない言葉をしっかりと理解し、尚貴は馬鹿を言うなと窓越しに写る天野を睨みつけた。ついで自らの手で扉を開け、地面へ降り立つ。

「ようやくたどり着いたんだ。くだらないことでふいにして堪るか」

 一月前の尚貴ならば絶対に吐かなかっただろう言葉も、今は自然に音にできる。それを情けないと思うことは、少なくなることだろう。

 呆れ顔の天野を尻目に扉を閉めると、少しの間を置いて車が発進する。それを見送り、天野のアドバイス通りに裏口へと足を向けた。人一人が荷物を抱えて通ればすれ違うこともできないだろう路地は明かりが少ない。扉の上に小さなライトが備わっていることで、辛うじて扉の姿が認識できるが。

 裏口正面の壁にもたれかかり、暇つぶしに煙草をくわえた。街灯も僅かに届かないこの位置では、口元の光がやけに赤々と感じられる。

 春が近づいたとはいえ、未だ闇が深い時期である。暖を取るには頼りなくとも、精神的には幾らか心強い。

 ゆっくりと吐き出した紫煙を目で追いながら、尚貴は今更ながらのことに気づいた。

「あいつとは、酒を挟んで縁があるな」

 出会いが出会いなだけに、蒼とは陽の下で顔をあわせたことがない。すべてが宵という名の帳が降りてからだ。

 一度目は会員制の店で。

 二度目は店から逃げ出した彼と路上でぶつかり、彼を部屋へ連れて行った。

 どちらにしても偶然の産物でしかない出会い。しかし、偶然が必然を呼び、やがては運命となる。

「……俺は無神論者だっての」

 もちろん、今でも神という未知なる存在を信じてはいない。「運命」なんていう第三者に判断を委ねる言葉も。

 自分の意志ですべてを決める。だからこそ、自ら三度目をもぎ取りにきたのだ。

 煙を燻らせながら待っていた尚貴の見つめる先に光が溢れた。その中に影がさし、扉の金属音とともに再び闇が舞い降りる。薄明かりの中通りへと向かうその人影に、尚貴は迷わず声をかけた。

「蒼」

 声を掛けると、目の前を通り過ぎようとした人物が立ち止まる。声だけで判断できたのか、振り返る動作がやけに遅い。

「……どうして、ここ……」

「迷い猫を探してたら、お前の保護者が居場所を教えてくれたんだよ」

 予想していなかったのだろう。さらに見開かれる瞳に尚貴は小さく笑った。

 逃げられないよう蒼の腕を掴むと、挑むような視線が向けられる。それは、あの日尚貴を捉えた鋭いそれと類似していた。しかし、拒むようなそれが形だけだと、尚貴の手を解かない彼自身が答えを教える。

「義孝さん、が……?」

 どうやら蒼には内密で話が進められていたらしい。怪訝そうな声音が、彼の心境を吐露している。

「ついさっきまで別の場所で飲みながら話をしてきたところだ」

「……何の話を?」

「おまえと高宮の関係、かな」

 正確には、天野たちがどうやって蒼の居場所を突き止めたとか、そういった天野側の事情を聞いたというべきだろう。だが、それに絡んで蒼がこうした「夜」の仕事を勤める理由も僅かながら聞き及んではいる。

 高宮に対して義務があると、天野は言っていた。詳細はなかったものの、彼らがその義務という枷を慎重に扱っていることだけはわかっているつもりだ。

 そして、相変わらずはぐらかされたままの事実もある。

「聞きたいことがあるといったら直接聞いてみろ、と放り出されたところだ」

「聞きたいこと?」

「天野から、おまえが高宮の一員として働いている理由は漠然と聞いた。だが、そうするべき対価は何処にあるんだ?」

「……それを聞いてどうするの?」

 皮肉気な響きが含まれていると思ったのは気のせいではないだろう。暗闇に慣れた視界のなかで、蒼の表情がわずかに硬くなった。

 蒼の背景を知ることは尚貴にとって都合のいいことだと判断したのだろう。彼をモデルにしたキャラクターにもさらに含みを持たせるために、と。

「僕にとって何にもメリットのないことに、自分の過去を晒せって? 冗談じゃない」

 睨み付けてくる視線に熱が帯びる。苛立ちを露わにするその表情を尚貴は飄々と見つめ返した。

「メリットがあれば良いのか?」

「―――え?」

「だったら、言ってみろ。俺が何をしたらおまえのお気に召すんだ?」

「…………」

「おまえの望むことをやってやるよ。とりあえず跪いてみるか?」

「な―――ちょ、ちょっとっ」

 言うと同時にその場に膝をつこうとする尚貴を、細い腕が制止する。そのままの体勢で蒼の出方を待っていると、ふいに彼の身体が胸へと飛び込んできた。僅かによろめいて受け止めた尚貴の耳に、馬鹿じゃないの、と震える声が届く。

「馬鹿とはまた言ってくれるな」

「馬鹿だから馬鹿って言ったの! なんで、あんたがそこまでするの? そこまでして小説を書きたいわけ!?

「それとこれとは別だよ」

「…………?」

 訝しげに向けられた顔を見つめながら、尚貴はゆっくりとその細い身体を抱きしめた。逃れられない程度に力をこめて囲いを作り上げる。両腕が温もりを感じると同時に蒼の身体が僅かに反応した。

「小説とは関係なしに、おまえのことが知りたい」

 察しのいい蒼にしては珍しく、こちらの意図が読めないらしい。どこか不安げな気配を漂わせるその姿は、まるで人との接触に慣れないことを証明しているかのようだ。

「わからないか? おまえに興味があるんだよ」

「……いきなり何を……」

「いきなりでもないぞ。おまえがいなくなってからずっと考えていたからな」

「どうして……? 迷惑をかけた居候が消えて清々してたんじゃないの?」

「迷惑ねぇ」

 どうにも腑に落ちない言葉を言われて、尚貴は首を傾げた。

 あの時の蒼は、完全に空気と化していたような覚えがある。尚貴の気配を探り、考え、そして動く。他人と暮らすという煩わしさはなく、想像以上の居心地の良さを味わった。

 これを迷惑行為というのなら、今まで関わった女たちはどうなるのだろう。

 脳裏に浮かんだ「女」という単語に、尚貴は彼が出て行く原因となった事柄を思い出した。

「ああ、確かに迷惑は被ったな」

「…………」

 途端に傷ついたという顔をする彼の表情は意外に幼い。初めて見る年相応のそれに、尚貴は知らず笑みを浮かべた。

「勝手に他人を家に入れるわ、病気で体調が悪いくせに家を抜け出すわ、本当に手間のかかるやつで……挙句の果てに、知らない誰かの腕に自分で抱かれていくようなやつだからな」

「あ、あの時は―――っ」

「誰が来ても放っておけば良かったんだよ。それを馬鹿正直に応対して、余計に具合を悪くしてりゃ世話ないだろうが」

「…………」

「おまけに凌とかいうやつに迎えに来られてるし」

 天野よりも立場が上だという、蒼と同じ年代の青年の姿を思い出す。彼の腕を受け入れ、素直にその体重を預けた蒼を見たときは、体中の血が騒いだ。

 どうして俺じゃないんだ、と。

 あの時点ではわからなかった感情も、今では手にとるようにはっきり認識している。

 芝居がかった溜息を落とすと、空いた手を蒼の頬へと伸ばす。ぴくりと反射的に逃げ打つその身体をしっかりと捕らえると、正面からじっくりと彼の瞳を見つめた。

「一応言っておくが、俺はあの女を部屋に呼んだりしていないぞ。それどころか、部屋の場所さえ教えていなかったんだ。あの部屋に入ったのは他人ではおまえが最初だよ」

「え……?」

「なんせ、初めて側に置いておきたいと思った人間だからな」

 戸惑いに目の前にある瞳が揺れている。その駆け引き感情のない素直な反応に尚貴は目を細めると、自身が求める衝動に身を委ねた。

 硬い躰、肉付きの薄い感触、そして何よりも化粧独特の匂いを纏わない。

 女性と明らかに違う肉体を持つというのにその唇は誰よりも柔らかい。

 唇を重ねた瞬間、蒼の目が驚愕に満ちる。それを視界に納めながら、尚貴はさらに深いキスを仕掛けた。反射的に歯を食いしばろうとするその行為を顎に指をかけることで邪魔をし、舌を口腔内に侵入させる。逃げを打つ蒼のそれを追いまわし、時には追わずに周りの粘膜を舐めあげる。

「…………っ」

 尚貴の胸を押し返そうと躍起になるその身体を殊更強く拘束した。身長差がそうさせるのだろう、頼りない背中がぐっと反り返る。

 蒼の抵抗が弱まったのを感じ、顎を捕らえていた指を項へと回し、細い腰を抱き寄せる。すると観念したかのように、蒼の指が尚貴の腕へとかけられた。

 薄目で覗き見た蒼の顔は上気し、眉が苦しげに顰められている。それに背筋が震えたのは、嗜虐性が刺激されたからかもしれない。

 今まで関わったどの女性よりもそそられる。

 抱きたい、とはっきりと思ったのは今が初めてだ。

「ふ……ぅ」

 ふいに届いた喉の奥からの声に、尚貴は気がついた。息苦しいのか、腕にかかった指が弱々しくコートを引く。

 名残惜しく長すぎる口付けから解放すれば、蒼は全体重を尚貴に預けてきた。弾んだ息を必死で整えるその仕草は、彼がキスに慣れていないことを裏付けるているようで、尚貴は唇に笑みを浮かべる。

「大丈夫か?」

「…………あんたに、言われたくない……っ」

「そんな目で睨まれても困るんだが」

 潤んだ瞳は艶かしく、互いの唾液で濡れた唇が暗がりの中でも光っている。それを知らせるために親指でそこを辿れば、触れた端から震え出した。

「……っ」

 せめてもの抵抗だろう、弱々しく胸を叩いてくる拳を受けて、尚貴は小さく笑った。そして抗議の拳が再び下りてくるのを流しながら、項に回した指で彼の髪を梳いてやる。

 相手の反応を受けて何かを思うなんて行為は珍しい。ましてや、こうして自然に相手に触れたいという想いはいつ以来抱いていないのだろう。

 蒼を見下ろす瞳は、きっと今までにないほどに甘いのだろう。それを自身で感じるほど、尚貴は目の前の相手に夢中になりかけている。

 しばらくそのままの姿勢で時間を過ごし、蒼の息が整い始めたところで尚貴は用意していた科白を告げた。

「おまえ、アルバイトをする気はないか?」

「…………?」

「好きな時間に来て、家事をやってくれ。ああ、それと秘書もどきもやってくれると助かるか。なんなら住居と三食昼寝付きにするぞ」

 先ほどまでの濃密な空気をあっさりと霧散させた言葉に、彼は目を丸くし、そしてやがては微苦笑を浮かべる。

「……昼寝、つくの?」

「俺が仕事に取り掛かっているときはいいぞ」

「許可制?」

「俺が起きてるときにお前が寝ることはないだろう、ということだよ」

 軽妙なリズムをもつ会話は、一つ屋根の下で過ごした時間をすんなりと引き戻す。それでも違うのは、見上げてくる視線が少しの甘えを含んでいることだろう。

 最初からこれを向けられていれば尚貴はここまで興味を持たなかったかもしれない。彼の必死に張っていた虚勢を知っているからこそ、今こうして穏やかに受け止められる。

 あとは、お互いの感情をすり合わせていくだけだろう。

「駄目か?」

 断られることはないだろうと予測しての問いに、少しの間を置いて蒼が囁いた。それを受けて尚貴は再び抱く腕に力をこめる。

 それは、月が見守る中での睦言だった。





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