甘いひととき


 

 暦では春を迎えたこの季節は、未だ冷え込みが激しい。
 こんなとき、自分以外の人間が点けた灯りに暖かさを感じるのは、点けた人の存在が温もりを残すからだろうか。
「ただいま」
 いつのまにか習慣となった挨拶は、静まった廊下に響く。
 カシャンと錠が下りるのを背後に聞きながら靴を脱ぎ、廊下を歩む。音を立てる荷物に気を使いながらリビングへ向かう途中、部屋から洩れる光に気がついた。
 扉の向こうからかすかに届くキーを叩く音が続いたかと思えば、ぱったりと止んだりする。
 腕時計を見れば夜中に近い。
「……まだやってるんだ」
 冷蔵庫の作り置きは減っているだろうか。
 食べたとしても、それはとっくに消化されている可能性が高い。
「甘やかしたくないんだけどな」
 重さを感じ始めた手首に、蒼は苦笑をした。
 
 
 
 画面と睨み合ってから、何時間経ったのか。
 空腹に絶えきれず中座した僅かな時間を除き、尚貴はずっと画面に向かい続けていた。
「……くそっ」
 指が動いたと思ったのもつかの間、再びスピードは緩やかになる。
 潮のように寄せてきていた思考の波は、自然の摂理に従ったようだ。溢れるようだった全てが今は静かになりを潜めている。
「やれやれ……今日はこれまでか?」
 まいったな、とぼやいても状況は変わらない。
 尚貴はその場で腕を伸ばし、身体から力を抜いた。肩を回していつのまにか溜まっていた凝りを解し、一頻り音を鳴らす。
 仕事でも相棒の煙草を加えた尚貴は、火をつけようとして澱めいた部屋に気がつく。
 一度思考を切り替えてしまえば周りに頓着しない性格が幸いしたのか、煙が充満した空気にまったく気を払わなかった。かといって、この寒い時期に窓を開け放し、常に風を呼び込むほど酔狂でもない。
 気分転換になるだろうと窓を開け放した尚貴は、空を見上げて呟いた。
「―――今夜は満月か」
 このマンションは一戸建ての多い住宅街に立つため、それほど高さはないのに空をさえぎるものが存在しない。都会のざわめいた騒音もなく、あるのは澄んだ空間だけだ。
 静かなときは、時間の感覚を更に奪っていく。
 
 
 
 ドアノブの回る小さな音に、尚貴は我に返った。振り向くと同時に蒼がドアの隙間から顔を覗かせる。
「お帰り」
 暗闇を覗く子供のような仕草がこちらを気遣ったものだと知れているから、尚貴はつい口元を緩ませる。
 こちらが先に気がつくとは思わなかったのだろう。動きを止めた蒼は、次の瞬間笑みを浮かべた。扉を後ろ手に閉める。
「ただいま。仕事は?」
「休憩中。―――それは?」
 尚貴の視線が蒼の手元に向けられた。そこには一つのマグカップが握られている。
「がんばってる人へのご褒美と思ったんだけどね」
 仕事してないんじゃどうしようかな。
 つれない言葉とは裏腹に差し出されたそれを、尚貴は素直に受け取った。しかし、その甘ったるい匂いに思わず眉間に皺を寄せる。
「蒼……」
 この家には縁のない茶色い液体に、尚貴は戸惑いの声を上げる。
「嫌なら残しても良いよ?」
 素気なく流して、蒼は尚貴の横に並んだ。尚貴の寄りかかるサッシに手をつき、空を見上げる。その姿がどこか拗ねた様子なのは気のせいだろうか。
 鼻につく独特なにおいに眉を顰めながらも、尚貴はマグカップを口元へと運んだ。甘い味が口内に広がる。
 中を見たらさらに甘い気がして泳がせた視線は壁にかかるカレンダーで止まった。いつもの癖で締め切りまでを数え、ようやく今日が何の日かを思い出す。
 世間一般のイベントを忘れる自分も問題だが、蒼も相当なものだ。
「蒼」
 振り向いたその頤を指で掴み、尚貴は唇を重ねた。視線を交わしたままのキスは、何度か啄ばむことを繰り返す。
 蒼のそれが隙間を作ったのをきっかけに、二人は目を閉じてお互いを深く求め合った。
 チョコレートの味は一体どちらのものか。
「あま……」
 目の前の広い背中に体重を預け、蒼が小さく呟く。
「俺としては、もっと甘いのが食べたいんだが?」
「……ばぁか」
 背中を下がっていく指の意図に気がつき、蒼は逞しい首へと腕を伸ばした。




 新しいネタを考える時間がなくて、以前養子に出していたものを再アップ。
 よくよく考えたら、彼らの甘い日常風景はこれが最初なんじゃないか、と思い出したりして……時間が過去で止まってるんだなぁと再認識いたしました(汗)。精進いたします……ううぅ。



NOVEL



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送