つかみきれない距離



 夏らしく夕立の降った夜は、幾分過ごしやすい。こんな時人は夜に出かけようという気になる傾向があるようだ。夜の街に出歩く人影は数え切れないほどある。
 蒼の働く店もまずまずの盛況だった。大声で話す輩のいない、落ち着いた空気が保たれているのは新顔が少ないからだろう。
「いらっしゃいま……せ」
 自分が陣取るカウンターに近寄ってくる気配に蒼は声をかけ、その人物に目を丸くした。目の前のツールに腰掛けた客に対して、意外そうな顔をする。
「なんだよ、その顔は」
 飛んでくる小言に蒼は肩を竦めた。
「失礼しました」
 何も言われないまま天野の酒を作り始めていると、世間話もなく天野は口を開く。
「之路は来てないのか?」
「ええ」
 天野は差し出されたグラスに手を伸ばし、溜息をそれに吹きかける。
 蒼の可愛がる未成年は、最近になってようやく自分の居場所を見つけることができた。夏休みに突入した、と社会人に向かって自慢げに話しに来てからしばらく経っている。
 蒼は天野の顔を窺おうとして――やめた。プライベートならまだしも、公の場ですることではない。今の蒼はあくまでもバーテンダーだ。訪れる客に対して居心地のいい場所を提供するのが使命である。
 少し距離を置くため天野の視界から外れるように立ち位置を変えようとしたとき、店の静寂を破る声がした。
「おい、蒼。こいつどうにかしてくれ」
 離れたところからの声に、二人は顔を向けた。見ると、尚貴が一人の人間を支えながらこちらに歩いてくるところだった。完全に意識を飛ばしているのか、足取りが止まっている。
 その小さな姿に見覚えがあった。先ほど噂をしていた未成年は、どうやら意識を飛ばしているらしい。
 慌てた蒼がカウンターの外に出るよりも先に天野が動いた。素早く立ち上がった天野は尚貴たちのほうへ足早に向かう。
 遅れて近づいた蒼に尚貴が手で合図をしてきた。それに気づいた蒼は頷き、天野がスツールにおいていた鞄と上着を手に近づく。
「悪い、タクシーを捕まえてくれ」
「はい」
「頼んだ。――之路」
「ん……」
 返事のような声を出して、之路は素直に天野へと体重をかけた。ベッドで肌を寄せ合っているときのように、甘える仕草でその胸元へ顔を埋める。
 いくら細くても相手は高校生だ。それをよろめくことなく受け止めると、天野は軽々とその体を抱き上げる。店内の視線が天野に集まるが、本人はいたって涼しい顔のままだ。
 それどころか、腕にかかる重みに笑みさえ浮かばせる。天野の甘ったるい視線に気づき、尚貴はあからさまな嘆息をしてみせた。
「すこしは周りを気にしろ」
「気が向いたらな」



 外まで二人を見送ってから戻ると、先ほどまで天野の席だった場所に尚貴が座っている。その手には天野に差し出したグラスがある。
 蒼がカウンターに入ると、尚貴は声をかけた。
「すぐ拾えたのか?」
「タクシー? うん、ちょうど近くで降ろしてるのを見つけたから」
 言いながら尚貴が持つグラスを引き取ると、蒼は改めて酒を作り始める。天野が好む酒は尚貴も飲めるけれど、趣味が違う。
 蒼が自分のために用意するのを見やりながら、尚貴は呟いた。
「天野も苦労する」
「ユキ、寝ちゃったんだね」
「ここに来るまでのタクシーでな」
 笑いながら蒼は小さな音を立てて尚貴の前にグラスを置く。それを受け取り、尚貴は小さく掲げて苦笑を浮かべた。
「面倒な組合せができたもんだ」



 すっと意識が上昇する感覚に、之路は目を覚ました。薄暗い部屋の中でぼんやりと天井を見上げ、思考が働き出すのを待っていると、頭よりも先に感覚が自分の状況を捉え始める。
柔らかなクッションに羽毛だろう掛け布団。視界に入る天井は自分の部屋と異なっている。そして暖かな温もり……。
「……え?」
 見覚えのあるそれらに一気に目が覚めた。反射的に身体を起こそうとして自分の身体が抱え込まれているのに気がつく。簡単に之路を抱き上げてしまえるその腕は、まだ幼い子供をその肉体で守る動物の親のように之路の身体を包んでいた。
 カーテンの隙間から入り込む光しかない部屋の中、それでも相手がわかってしまうのは彼だからだろうか。それとも、それだけ自分の躰が彼を覚えてしまったということなのか。
 ここで過ごした日数は片手ほどしかないが、内容は恐ろしいほど濃い。
 まるで天野を身体で覚えたような考えに之路は慌てた。頭を振って否定するが、一度思い出してしまえば、連鎖反応で余計なことまで浮かんでくる。
 火照ってしまった頬を両手で包みかけたその時、天野の腕が腰に絡みついた。
「うわ……っ」
「夜中に何やってんだ、お前は」
 そのまま腕の中に引きずり込まれ、天野に重なる形になる。顔を上げると、まだ完全には覚醒していないのか、天野は目を瞑ったままだった。
「……ごめん、起こした?」
 こんなときはいつもよりも耳が音を拾いやすい。唇だけで囁くように問えば、天野が喉で笑った。
「もしかしなくても迷惑かけた、よね?」
「どこまで覚えてる?」
「……尚貴さんのマンション出たとこ」
 記憶がなくなるまで飲んだのだろうか。
 自分に首を傾げた之路だが、思考よりも天野へと意識が流れてしまう。髪を撫でる指の感触に身を任せ、そっと瞳を伏せる。こうして穏やかな時間があるのは久しぶりだ。
 物音のしない静かな部屋で、天野が誰よりも近くにいる。二人の心音以外、耳に入ってくるものはない。
 之路は体重をかけないように身体を起こすと、真上から天野の顔を見下ろした。気配でわかったのだろう、天野がふと目を開く。
 言葉のないまま、二人の視線が絡み合う。之路が目を閉じるのと天野の指が之路を引き寄せるのはほぼ同時だった。
 温もりが伝わるだけのキスはすぐに深くなっていく。天野の合図を受けて之路は唇を緩めた。隙間を埋めるように入ってくる自分以外の熱。
 いつしか知ってしまった返される想い。
 肉欲だけではなく、言葉のない会話が確実に存在する。それを之路に教えたのは天野だった。
 こんなに気持ちがもっていかれるのも、天野が相手だから。天野以外に自分の想いをぶつけたいとも思えない。
 天野の首に腕を巻きつけながら、之路は自分の感情を解放する。目頭が熱くなっていても、それを堪えようとはしなかった。
 之路のこぼした涙が天野の頬を伝って枕へと流れていく。
「……泣くな」
 天野が之路の目尻へと唇をスライドさせながら呟く。
「お前に泣かれるとどうして良いかわからなくなる」
「……天野、さん」
 泣くな、と囁く瞳が優しい。之路は返事の代わりに天野の肩へと顔を埋めた。



「――で、何であんなになるまで飲んだんだ?」
 自分以外の体温に誘われるように眠り込み、次に目が覚めたときは昼前だった。
 朝食兼昼食を食べ終えた休息の時間、天野が思い出したように切り出す。出されたカップを両手で持ちながら之路は隣の人物をそっと見上げた。
 その瞳は自分の中に抱えきれない秘密を持った子供のようで、心中を察してくれとばかりに訴えてくる。
「之路」
 だが、天野はそれを良しとしなかった。名前を呼んできちんと音にするよう促すと、之路は戸惑いを隠さず俯く。
 一向に口を開こうとしない之路に天野は溜息をこぼした。さっさと切り札を出すほうが懸命のようだ。
 一日一件あった無言の着信。それが誰のものだかわからないと思っていたのだろうか。
「電話をかけたら留守電くらい入れておけ」
「…………っ」
 反射的に顔を上げた之路は、天野が苦笑していることに気がついた。とぼける事もできたのに、うかつに反応してしまったのが悔しい。だが口をついて出たのは拗ねた声音だった。
「……なんでかけ直さなかったんだよ」
「お前からとは限らなかったからな。基本的に電話はかけない性質なんだ」
「……嘘つき」
「ずいぶんな言われようだな」
 言葉に反して口調が柔らかい。肩に腕をまわされて、之路は自分の体重を天野へと掛けた。居心地の好い位置を探し、甘えるように彼の首元へ自分の頭を埋める。
「……なんで」
「うん?」
「何で連絡くれなかったの?」
 最後に会ってからまるまる十日間、天野から連絡がなかった。セキュリティのしっかりしたここでは待ち伏せもかなわず、蒼の店に行けば会えるかと期待してもそれは裏切られる。三日も待ちぼうけを食らえば十分だった。
 もちろん蒼は之路だけを相手するわけにはいかない。かといって他の店に行って見知らぬ大勢の中に埋もれるつもりはなかったし、蒼もそれは断固として反対した。
『だったらおいで。ちょうど見張りも欲しかったことだし』
 仕事が修羅場だという尚貴を見張って欲しい。そんな言葉でごまかされた見え見えの申し出に之路は頷き、それから今日までを二人のマンションで過ごした。そして昨日は尚貴の言う「気分転換」に付き合って早い時間から飲みだしたのだ。
 お気楽な高校生の自分とは異なり、天野は忙しい社会人だ。きちんと聞いたことはないが、身分も地位もあるだろう。だから会いたいと思うのは自分の我儘なのだと、之路は自身に言い聞かせていた。
 それでも会えない間、之路は何度も不安に苛まれる。本当にそれだけなのだろうかと。尚貴と蒼と過ごしていても、その霧は晴れることなくついて回るのだ。ついつい飲みすぎたのは囚われる想いから開放されたかったのかもしれない。
 そのまま黙り込んでしまった之路を見下ろし、天野は唇に笑みを浮かべた。不謹慎だと知りながらも、恋人の葛藤には顔も緩んでしまう。
 顔を上げようとしない之路の額にそっと唇を寄せ、天野はその細い身体を起こさせた。目を見張る彼の視線を受けながら、テーブルの脇に載せていた財布を手に取る。
「ほら」
 そこから出てきたのは薄い一枚のカードだった。シンプルに矢印しかかかれていないそれは、何度か目にしたことのあるものだ。
「――これって……」
「失くすなよ。予備はもうないからな」
 差し出されたそれを震える手で受け取った之路は、重みを感じるように掌から視線を逸らさない。
「それがあれば、蒼たちのところへ行かなくても家が出られるだろう?」
「……いいの?」
「いらなければそれでいい」
 素気なく言うと慌てたように頭が横に勢いよく振られる。それを満足そうに見やり、天野は之路を引き寄せた。
「あとでエントランスの暗証も教えるよ」
 彼が全面的に受容れてくれている。それを知った今、不安に負けていたこの十日間がきれいに消え去っていた。自然に笑みが浮かんでくる。
 手の中にあるものを曲げないように握り締め、之路は天野へと向き直る。
「ありがとう」
「……それだけか?」
 含む言葉の意図に気づき、之路は顔を赤くした。躊躇いながらソファに手をつき、天野の肩を支えにしながらゆっくりと顔を傾ける。
 ぎこちなく重なった唇はすぐに主導権を奪われ、之路の身体から力が抜けるほど続けられた。






以前公開していたものなので、正確には再アップ? になります。
之路は基本的に人との距離の測り方が苦手なので、天野にもまだ遠慮している部分があるのね、というお話です。
そのうち誰かさんの影響でどんどん強くなるような気がしなくもないんですが……どうなんでしょう。
とりあえず寝室でのいちゃつきばかりをさせないように(笑)がんばりたいと思います。





novel





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送