朔
雨の夜、あの路地を通ったのは偶然だった。
一月以上に及んだ仕事を終え、久々の休日をどう過ごそうかと考えながら歩いていた帰り道。冬の雨は吐息も白く、外に出るだけで凍えるような寒さを体感させるというのに、彼はコートも着ずに薄着で蹲っていた。
酔っ払いかと判断し遠巻きに歩きかけた蒼は、彼が青年の域に入らない少年だと知って足を止める。
『大丈夫?』
声をかけたのは、ほんの気まぐれから。差しかけた傘の下で彼は蒼を睨みつけ、そして背を向けた。言葉にされない拒絶に目を瞠り、そしてその一瞬で彼が怯えていることも読み取る。
まるで一度人の手で育てられたことのある野良猫のようだと思った。
差し伸ばした手に脅え、自分以外の人間に対して警戒心を絶やさないその空気を、蒼は嫌というほど知っている。
大丈夫だろうか、と視線を向けた矢先、数歩も行かないうちに崩れるように彼は倒れた。見捨てるという考えは浮かばず、蒼は彼をこのマンションまで連れてきたのである。
「……おまえ、なぁ」
入れ違いでこの部屋を空けた恋人に連絡をすると、第一声を呆れた声音で返された。
「犬猫じゃないんだ、ほいほい拾ってくるなよ」
「拾うって……目の前で倒れられたら放っておけないじゃない」
「放っておけない、ね。普段なら救急車を呼ぶなりして終わりにするだろう、おまえは」
さすがよくわかっている。音にする代わりに蒼は唇の端を持ち上げた。
高宮に所属してからというもの、行動には慎重さが欠かせない。それを下調べもなくその場の判断でここまで連れてきたことは、確かに範疇外の行動だろう。
蒼にもその自覚はあるし、あの時迷わなかったとはいわない。それでも、彼をあの場に放っておくことはできなかった。
向けられる傷ついた瞳が、助けを求めているように思えたから。
「あそこで見捨てたら、人間失格のような気がしたんだよ」
あの時感じた何かを今ここで説明する気にはなれない。
茶化すように答えを返せば、受話器の向こうから溜息が聞こえた。
落ちた沈黙の中で、彼は蒼の濁した言葉の意味を考えているのだろう。言葉を操る職業病なのか、彼は空気に溶け込みそうな意図を読み取る癖がある。
暫し無言で待った蒼は、ようやく届いた声にふっと肩の力を抜いた。
「明後日、いや、明日か。俺が帰るまでに懐かせておけよ」
「努力します。膝枕できるくらいになっていたほうがいい?」
「…………おい」
「あはは、冗談だよ。名前と身分くらいは聞いておくから……?」
「―――どうした?」
「ん? 彼が起きてきた」
肩越しに視線を投げると、ドアの向こうに立ち竦む少年の姿がある。身体ごと振り返り手招きをしてみるが、一向に動く気配はない。
「おまえに脅えているんじゃないのか?」
一言も実況中継していないのに彼には今の状況が見えているらしい。からかいを含んだ声音にかちんときた蒼は、表情を変えることなく強気に答えを返した。
「そっか、そうするとますますあの子に集中しなくちゃね。そうしたら手一杯になっちゃって貴方の相手をできなくなっちゃうのかな。うん、それは残念だなぁ」
「…………」
「早く帰ってこないと、貴方の出番はなくなるよ」
絶句した相手に追い討ちをかけて、蒼は受話器を元の位置へと戻す。切る前に慌てたような声が聞こえた気もするが、それは知ったことではない。
寒い廊下で部屋の中を窺っていた彼を迎えた蒼は、彼にソファを示すとキチンへと向かった。
懐かせておけなんて、言うのは簡単だけどね。
牛乳を火にかけながら背後の気配を探り続ける。ソファに所在無く座る少年と今までに交わした言葉は数えるほど。だが、それだけでも脅えている対象が、彼以外の人間だということだけは明らかだ。
コトコトとたてる音を耳にしながら、蒼は右の掌を見つめる。
差し伸べたこの手を振り払われたのは出会ったときだけではない。意識が混濁し魘されながらも、彼は人の気配に敏感だった。
彼に関わった人物は、彼にそうさせるだけの行為をしたのだ。
乱れた服装と肌に刻まれた刻印。合意の上ではつかないだろう抵抗した痕も見え、彼がどんな風に扱われたのかも想像がつく。
彼を救えるほど力を持たない自分に対して溜息が出た。だが、できないことを“できる”と過信することは間違いだと知っている。
蒼に彼から恐怖を取り除けるほどの力はない。できるのは落ち着かせること、話を聞くこと、そして害を与えない人間もいるのだと教えること、それくらいだ。
牛乳を注いだマグカップを手にリビングへと戻る。彼はローテーブルに広げっぱなしだった雑誌を見るともなしに眺めていた。
それは尚貴から電話がかかってくる前に読んでいたもので、彼が見つめているページにはカクテルの配合が写真付きで載っている。
「お酒に興味あるの?」
「――――……っ」
突然声をかけたのがまずかったのか、彼は驚いたように顔を跳ね上げた。こちらを見つめながら努めて深い息を吐き出すその行動に、蒼は失敗したかなと内心で舌打ちする。
「ああ、ごめん。驚かすつもりはなかったんだ」
あえて明るく声を出し、今の反応を見なかったことにした。手にしていたマグカップを置くと、彼から斜めに位置する一人用ソファに腰を落ち着ける。その間、彼はというと僅かに波打つ表面に視線を落としていた。
「あれ? ミルク駄目?」
「いえ……そうじゃなくて、なんでミルクなのかと思って」
「ああ、別に子ども扱いしたわけじゃないよ。今の君に必要なのはコーヒーじゃなくて睡眠だから。それにほら、眠り難いときはホットミルクが良いって言うだろう?」
「はぁ……」
笑いながら言葉を紡ぐと、彼は微かに顔を赤くしてマグカップに手を伸ばした。両手で包み込むように持ち、掌で体温以上の熱を受けている。
見知らぬ場所、そして見知らぬ人間を前に緊張していたのだろう。恐る恐るという言葉がまさに当てはまる動作で一口飲み込むと、彼の口から静かに深い息が抜けていった。
話をするには、もう少し時間が必要かな。
二口、三口とゆっくり嚥下していくその光景を見守っていた蒼は、彼の視線が向いたのを契機に口を開いた。
「話をしても、大丈夫?」
穏やかな声で話し掛けると、僅かに首が上下した。
「あの……貴方が助けてくれたんですか?」
「助けたというか拾ったというか……うん。ええと名前を聞いてもいいかな?」
「之路、です」
「僕は蒼といいます。職業はお酒を作る人、かな。好きなように呼んでもらって構わないよ。それで、ユキ……あ、ユキって呼ばせてもらうね。君は高校生?」
「……この春からは。受験はもう終わってるけど……」
学校も春休みみたいなものだし。
言葉を付け加えるたびにどこか言い訳じみたものになる。それに気がついたのだろう、彼は語尾を濁して気まずそうに俯いた。
こちらの反応を窺うその仕草が年の離れた義弟妹たちに似ていて、蒼は思わず吹き出してしまう。
「あ、あの……」
「ご、ごめん、笑うつもりなかったんだけど。そんなに緊張しなくていいよ。別に咎めようとは思っていないんだし」
肩を震わせながら言っても説得力はないだろう。案の定どことなく不機嫌そうな表情で蒼から視線を反らしている。まだ止まらぬ笑いを深呼吸することで抑えた蒼は、表情を改めて話しかけた。
「ユキは、しばらく学校休んでも平気?」
「え?」
突然の話題変換についていけなかったのか、彼は顔を上げて蒼を見つめた。問うような視線に笑みを浮かべ、蒼は言葉を重ねた。
「もしも休んでも平気なら、この家で安静にしているって言うのはどうかなと思って」
「でも……」
「身体、だるいんだろう? 目も潤んでいるし、熱も下がってないと思う。そんな状態で移動するのは辛いだろうし……。うちは迷惑じゃないし、同居人の許可も取ってあるからね。よければ、お家の方に連絡をして――――」
「い、いいです!」
「ユキ……?」
「あ、あの、どうせ家には誰もいないから……仕事で帰ってくることのほうが珍しい、から、連絡してもしなくても変わらないし」
無意識だろう、彼は自身を抱くように腕を回し、胸のうちにある何かを堪えようとしている。
蒼の問う視線から逃げ、必死で言い募るその姿に違和感を覚えた。脅える対象は襲った輩だけではないのだろうか。
蒼は驚かさないように細心の注意を払いながら、作られた拳にそっと手を当てた。びくっとあからさまな態度で反応されようと構わず、怯えた視線に対し柔らかく笑んでみせる。
「あ……」
「ユキの嫌なことはしないと約束するよ。だから、力を抜こう? ほら、深呼吸をして」
宥めるように軽く肩を叩いた。そのタイミングに合わせて意図的に呼吸をし、時間をかけて強張っていた身体から力が抜けていく。
触れた場所から伝わる震えがなくなるのを感じてから、蒼は口を開いた。
「さっきも言ったとおり、ユキが嫌でなければここで過ごして構わないよ。僕も今は休暇中で、話し相手が欲しかったんだよね」
優しく、ゆっくりと語りかけるように問う。どうかな、と重ねたものの、蒼は彼の出方を待った。決めるのは彼自身だし、蒼に彼を急かす権利はない。
之路は手に持つマグカップへ視線を落とした。まるで水面に言葉が浮かぶのを待つように、じっと見つめ続ける。やがて、意を決したように蒼へと向き直った。
「―――……どうして、ですか? 俺をここに連れてきたのも、ここにいさせてくれようとするのも―――貴方に、どんな得があるんですか?」
「理由が必要?」
「だって…………」
目を伏せ、愁いを帯びた表情は、彼をずいぶん大人びた雰囲気にさせる。彼の年代なら思ったことをすぐに口に出すものだろう。それを躊躇うほどの何かを、彼はすでに経験してきたというのか。
そのまま黙ってしまった彼を見つめ、蒼は苦笑を浮かべた。
子供の部分を持ちながら、否応なく成長してしまった部分を自分でも掴みきれていないのだろう。自分のことなのにわからないもどかしさと、自分以外の人間との距離のとり方について迷っているような感がある。
同年代よりも一足早く大人への階段を昇ってしまったのか、それともくねった道を選んでしまったのか。
いずれにしても、蒼は彼への対応をすでに心の中で決めてしまっている。それは彼がどんな反応をしようと、揺るがないものだ。ましてや、損得感情で括られる人間関係なんて築くつもりはない。
彼を納得させる言葉は、と考えていた蒼の脳裏に同居人の姿が浮かんだ。
「そうだな、理由と言われても難しいんだけれど……気になったから、じゃ駄目かな?」
「…………?」
「例えば、生まれたばかりの子猫が捨てられていたとするよね。今にも倒れそうなその子に気づきながら、素通りする人はいないと思う。ましてや、雨の中にいたなら、肺炎とかを起こしてしまうし、命の危険さえ伴うだろう? それを承知で見なかったことにして、後で後悔するのは性に合わないんだ。しかも熱を出したりして体調が悪いのもわかっているのに、雨宿りさせたからもういいだろう、と放り出すのも趣味じゃない」
「―――それって……もしかして、俺のことですか?」
「僕にはそう見えたんだよね」
戸惑いを隠せない之路に向かって蒼は満面の笑みで頷いてやる。すると、彼は視線を泳がせ複雑そうな表情を浮かべた。それは猫に例えられたことなのか、その他のことに対してなのか。
特に反論がなさそうなのを見て取って、蒼は再び口を開く。
「納得してくれたのなら、ベッドへ戻りなさい。また明日話をしよう」
「あ、でも……蒼、さんは?」
「寝る場所のこと? 心配してくれてありがとう、もう一つあるから平気なんだ。あのベッドを占領しても困らないから、気兼ねなくゆっくり休んでくれて構わないよ」
わかったね、と念を押すと、彼はつられたように頷いた。
蒼が同居人について話しそびれたと気づくのはもう少し後のことである。
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