契 約 生 活
〜更新〜
柳瀬紘也が同居人である友井直と初めて顔をあわせたのは、ちょうど去年の今頃のこと。
社会へ出るのをきっかけに一人暮らしを始めるつもりだった紘也は、親の知人が経営する不動産屋へ出向いた。薦められるままに部屋を見学し、すぐに契約を結んだのは特に気になることもなかったからだ。
ところが、その翌日に不動産屋から電話が入った。聞けばほぼ同時刻にあの部屋の契約を結んだ相手がいるという。慌てて不動産屋へ出向き、社長から詳しい話を聞いていたところに彼がやってきた。
紘也の、彼に対する第一印象ははっきり言って最悪だった。
この部屋に通される前からヒートアップしていたようで、社長を前に臆することなく即座に臨戦態勢へと突入する。
彼が社長にまくし立てるのを、紘也は他人事のように見遣っていた。
不機嫌を隠さないという意味では紘也も同じ態度だ。だが、彼のように不動産屋の言い分をまったく聞かないのは話し合いという代物ではない。元々非が不動産屋側にあるとはいえ、もう少しTPOを弁えるべきじゃないのか。
冷静になれば、対処の方法も違ってくるというのに。
あまりの騒がしさにうんざりしかけた紘也は、社長の一言に目を見開いた。
「こちらの不手際で申し訳ないが、どうだろう、年齢も近いことだし二人で部屋を借りてもらうというのは。ええと、シェアというんだったかな? もしそうしてもらえるのなら、敷金・礼金はお返しするし、家賃も勉強させてもらうよ。ああ、もちろん一年後の引越しの際にはそちらの好いように」
見ず知らずのやつと暮らすなんて冗談じゃない。そう突っぱねるのは簡単なことだ。
だが、これから先どれだけの金銭が必要となるのか予想もつかない。抑えられるところは抑えておくべきだろう。そう考えると社長の条件は紘也にとって悪いものでもないような気がする。
ただひとつ、他人との同居という点を除けば。
視線を隣りへと向ければ、彼もまた同じようなことを考えたのだろう。先ほどまでの勢いは嘘のように消え、真偽を測るように社長の顔を見つめている。
「どうだろうか?」
こちらが断ることはないと確信した笑みが向けられる。引き摺られるように頷いたことで、二人の共同生活は始まった。
――――――のだが。
「あんた、何回言ったら覚えるんだよ!?」
「……おまえに指図される覚えはないな」
早まったかと後悔したのは、同じ屋根の下で暮らし始めてすぐのこと。三日目には確実に己の欲に負けた選択を後悔した。
見ず知らずの相手と暮らすということは、お互いのサイクルを知ることから始めなくてはいけないのである。
喫煙者と嫌煙者、低血圧と正常値、家事嫌いと家事好き等々、真逆の嗜好が二人を苛む。
互いに自己主張を続け、埒があかないと悟った半月後、この家のルールが出来上がった。
煙草はベランダで吸うこと、友人等他人を呼ばないこと、そして、直が家事を担当する替わりに紘也が生活費を払うこと、だ。
一度落ち着きをみせれば、互いの許せる範囲を量りやすくなる。少しずつ歩み寄って、お互いの居心地の良さを求めるようになった。
時間が合えば共に食事を取り、居間でどちらかが映画を見ていたら隣りに座る。もちろん自身の時間を邪魔するようなこともない。
それが当たり前のように感じ始めたのはいつのことだっただろう。
やがて紘也は、彼女とデートする時間よりも、直と過ごす時間のほうが自然に感じるようになった。
美味しいものを食べれば、今度は直を連れてこようと思い。
仕事で味気ない食事が続けば、直の作る料理を恋しいと感じ。
一つ一つの動作をとっても、直ならば違う反応をするんだろうと比較し始め。
彼女といても頭の中では直と過ごす時間を心待ちにする。
そんな状態で上手く行くはずもなく、彼女から別れを宣言された。学生時代からの付き合いで、将来的なことを話し合ったこともある。だが、後悔という文字は縁遠かった。
それほど、紘也の心は直に比重を置いていることに気がついてしまったから。
そして今年の初め。
いつものように並んでテレビを見ていた二人は、どちらからともなく唇を重ねた。
アルコールを免罪符に、幾度も角度を変えて唇を寄せ合う。それが離れていくのを名残惜しいと感じることで、紘也は自分の気持ちに観念した。
男同士だとか、そんな考えは頭の隅にもない。ただ、彼にキスをしたい自分がいる。
それは紛れもない想いだった。
一度自覚してしまえば、自分がどれだけ彼を欲しているのかも否応なく突きつけられた。餓えた獣が餌のお預けを食らっているような浅ましいほどのそれに、紘也は戦慄を覚える。
キスしたい。
抱きしめたい。
そして―――全てを自分のものに。
留まるところを知らない欲望が、紘也の余裕を奪っていく。
それに負けそうだと観念した紘也は、自ら枷を嵌めた。
何かと一緒に取っていた食事は理由をつけて断り、朝も直が置きだす前から出かけるようにする。夜は社内・社外を問わず新年会だ何だと連れまわされ、そのピークが過ぎれば、溜まっていた分の仕事を片付けなければならない。まだまだ下っ端の自分に雑務は回ってくるし、そろそろ年度末に向けてのキャンペーンの準備も始める必要がある。
仕事始めの忙しい時期でよかった、と何度思ったことだろう。仕事に没頭をすれば余計なことを考えなくて済むし、何よりも自然と直と過ごす時間が減った。
顔を見たいと心が飢えたこともある。だが、このまま我慢をし続けることはやがて来る未来を助ける意味もあるのだと、自分を無理矢理納得させた。
そう、望まない形で始まった同居生活は終わりを迎える。
直との生活が順調過ぎて頭の片隅に追いやっていたタイムリミットは、件の不動産屋が報せてきた。
そろそろ空き部屋も出始めているから一度見にこないか、と。
一年だけという契約で始まった生活だというのに、こんなに後ろ髪惹かれる想いを抱くとは予想もしていなかった。
「…………潮時だな」
自嘲気味に呟き、紘也は電話の向こうの不動産屋にいくつか候補を絞ってもらうよう頼んだ。物件の間取り図を受け取った紘也を居間で居眠りをする直が迎える。
無防備なまでに熟睡をする直の表情は幼く無邪気だ。紘也は思わず笑みを浮かべかけ、だが僅かに疲労の気配を残す頬に眉を顰める。
何か、あったんだろうか。
抱いた疑問は目を覚ました直の一言で判明した。
「今日不動産屋から電話があって……それで……」
言い淀む直が募らせていた不安はこの部屋から出て行くことだったのだろう。そう理解した瞬間、胸の奥で絶望の感情が吹き荒れる。
同じ部屋で過ごす時間を惜しいと思っていたのは自分だけだったらしい。
自ら出て行くことを決めておきながら、沸き起こる感情に紘也は溜息をついた。途端になぜか身を強張らせた直に、紘也は作り笑いを浮かべその髪をぐしゃぐしゃにする。
「安心しろよ、今探してるから」
「探してるって……」
「一応学生のおまえよりは経済力はあるからな。ここはおまえに譲ってやるけれど、引越しの手伝いくらいはやってくれよ?」
よくもつらつらと言葉が出てきたものだ。自分でも感心するほど言葉は途切れなかった。だがその分言葉を重ねるのに必死で、紘也は直の反応が鈍いことに気づくのが遅れる。
呆然と見上げていた直がふいに俯き「わかった」と極小さく呟いた。その元気のなさに、初めて紘也は年下の同居人の様子に気がつく。
「友井?」
だが呼びかけに反応することなく、彼は視線を逸らしたまま平淡な声音を出す。
「あんたが探してくれるってんなら楽でいいや。決まったら教えてくれよ。こっちも都合つけるから」
清々したと繋がりそうな言葉に対して、その表情はどこか硬い。
訝る紘也から返事をもぎ取った彼は、その後視線を合わせることなく億劫そうに部屋へと引っ込んだ。見送った後姿は足取りが重く、抱きしめ支えたくなるほど頼りない。
紘也の中で不安が大きくなる。
自分は、何か見落としているのだろうか。
考えて、つい先ほど直が見せた表情を思い出す。
紘也が先に部屋を見つけたのだから、彼はわざわざ当たらし場所を探す必要はなくなった。手間を省いたという点でも少しは喜ぶ素振りを見せてもいい。
それなのに、どうして彼は傷ついた顔をするのだろうか。
「―――……傷、ついた……?」
声に出し、紘也ははっと顔を上げる。咄嗟に彼が姿を消した扉の方向に視線を向けた。
「あいつ―――」
とある想像が頭を過ぎる。
それはこの上なく紘也に都合のよい結末で、紘也は即座に否定する。
だが―――。
躊躇したのは一瞬のこと。
紘也は直の部屋へと足早に向かった。
「えーと……あれ? どこにやったっけ?」
「おい、この荷物はどうする?」
「あ、それは俺のだからあっちの部屋に置いて。それと……」
「すみませーんっ」
「あ、はい、今行きます!」
ごめん、適当にやってて。そう言い残した直が弾かれたように立ち上がる。廊下へ出て行く後姿を見送った紘也は、休憩とばかりに窓の外へと視線を転じた。
見慣れない風景はどこか寂しくて、どこか緊張する。
ふと直と想いが通じ合った翌朝のことを思い出す。
『もう少し広いところへ引っ越さないか?』
持っていた間取り図を手に提案すると、彼は不思議そうな顔をした。
二人を結びつけた部屋もそう悪くはないが、どうせなら新しい場所で新しい生活をスタートさせないか。
直は頷くと共に、一粒だけ涙を零した。
新しい部屋は紘也が検分していた候補の一つで、以前のマンションからひとつ分駅が離れている。間取りはさほど変わらず、水周りが若干広々としているくらいしか違いはない。何よりもお互いの通勤・通学経路にさほど影響ないのが魅力的だ。
不動産を回っていたときは、直との決別を意識していた。それなのに着かず離れずの距離を選択肢に入れていたのだから、我ながら未練がましい。
間取りを参考に部屋のあたりをつけ、その日のうちに見学と契約を済ませた。これで後は引っ越す日を決めるだけ―――という甘い目論見は崩れ、引越し業者の関係で平日しか空いていないという。
一人で大丈夫だと言い張る直の言い分を無視し、紘也は有給をもぎ取ったのだが。
「……これなら、あいつ一人で足りたかもな」
「何の話?」
振り返ると、新たなダンボールを運び込む直の姿がある。慌てて立ち上がり、紘也はその手から荷物を奪った。
「荷物はこれだけか?」
「この部屋の分はね。あとはそれぞれの部屋に置いてあるよ」
ありがとう、と礼を口にした直は、次の瞬間呆れた口調で言った。
「さっきと何にも変わってないように見えるんだけど?」
「……そうかもな」
「せっかく有給取ってるんだから、今のうちに片付けなって。寝る場所がなくなっても知らないよ」
「どっちにしろおまえのところに潜り込むに決まってんだろ。引越ししたての初夜だしな」
「しょ……って、馬鹿じゃないの!?」
「ぅわっ」
首まで真っ赤に染めた直に力いっぱい押され、紘也は持っていた荷物とともに床に尻餅をついた。ドシンと地響きのように大きな音が立つ。
「……痛ぇ」
「ご、ごめんっ! 大丈夫!?」
慌てて膝をついた直が唸る紘也に手を伸ばした。それを捉えてぐっと思い切り引っ張った。仰向けになった自分の上に直の軽い躰が倒れてくる。
「ちょっと、何すんだよ!」
「ぶつけた所が痛いんだから暴れるなって」
「……だったら離せばいいじゃん」
「嫌だね」
起き上がろうとする直を抱きしめることで拘束する。すると彼は諦めたように溜息をひとつ落とした。
「……どうしたの?」
「ちょっと、な」
出会ってから告白するまでの長い時間を回想していた。そう答えたら彼はどんな反応をするだろうか。
あの日、あの時、あの場所で偶然であったのが直でなければ、今こうして抱きしめる相手は違う人間だった。あの時付き合っていた彼女にもそれなりに好意を抱いていたと思う。だが、こんなに愛しいと思える相手ではなかったような気もする。
直だからこそ胸の奥底から沸きあがる想い。
それと共に過ごせない未来を想像することはできない。
「―――おまえで、良かった」
脈絡のない言葉に直が問う視線を向けてくる。
それに応えることなく、紘也は抱きしめる腕に力を篭めた。
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