上月流羽さま月ト兎ノ原遊戯



さよなら、大好きな人





雪の降る日に、あの人に出会った。

雪の様に舞う桜の中に彼を見つけた。

「じゃあ、僕ね、シャオロンのお婿さんになる」

あの日の言葉を彼は今も覚えているだろうか?

あの日をあの人は覚えていてくれるだろうか?

 授業中に目が合った回数をカウントする。
 縁なしの眼鏡の向こうの目と視線が絡む回数。
「この公式は、センターで頻出だからしっかり覚えておけよ」
 僕をどきどきさせるその声。
「シャオロン……」
 愛しい人のその名前は、終業のチャイムにかき消された。

 あれは、もう、十年ほども前になるだろうか。
 隣に引っ越してきた中国人と日本人の夫妻。
「……シャオロン?」
 まだ日本語がおぼつかないというその女性は、俺の名前を見てそう言ってにっこりと笑った。
 龍平だから、小龍(シャオロン)。日本語で言えば龍ちゃん、といった意味だとその夫である男性は苦笑いしながら言った。
「ジン」
 呼ばれて、女性の長いスカートの陰から小さな男の子が顔を覗かせた。
 父親に似た大きな目で母親のスカートを小さな手で握りしめて恥ずかしそうに俺を見上げる。
「息子の京です。京、お隣の龍平お兄ちゃんだよ。ご挨拶なさい」
「……こんにちは」
「こんにちは。これから、よろしくね」
 そう応えるとまた恥ずかしそうにスカートの陰に隠れてしまった。
 あれは、そう。3月だというのに、雪が降った日のこと。

「あ、シャオロンっ」
「やぁ、京君」
 幼稚園バスを降りたところであの人の姿を見つけて、僕は駆け寄った。
 大きな手がぐしゃぐしゃと頭を撫でてくれて、僕はぎゅっと目を細めた。
「あのね、あのねっ、今日ねっ、おっきくなったら何になりたいかってお絵かきしたのっ」
「へぇ。京君は、何を描いたんだ?」
「えっとね……」
 手提げ鞄から出した絵。
「……僕ね、シャオロンのお嫁さんになるの」
 大好きなシャオロン。
 シャオロンと僕を描いた絵。
 シャオロンは目を丸くして、だけど、すぐに目尻に皺を刻んだ、優しい笑顔になった。
「これが俺で、こっちが京君?」
「そう」
「よく描けてるね、上手だよ」
「あのね、……僕、シャオロンのお嫁さんになっていい?」
「お嫁さん、かぁ……」
「そんなの無理だよっ」
 そう言ったのは僕と同じクラスの女の子で。
「だって、男の子はお嫁さんになれないんだもん。男の子がなるのは、お婿さんだもん」
「……じゃあ、じゃあっ、僕ね、シャオロンのお婿さんになるっ」
 あれは確か、僕が五歳の春のこと。
 あの時、あの人はなんて言ってくれたんだっけ?
 どうしても、今、それが思い出せない。

 大学を卒業して五年後。ずっと希望していた母校へと、俺は赴任した。
 初めの年は副担任を任され、忙しいながらに充実した日々を送っていた二年目の春。 
 まだ体に馴染まない制服を着た一団の中に、懐かしい顔を見つけた。
「……シャオロン?」
 彼は、まだその名と俺のことを覚えていてくれたらしい。
「ずいぶん大きくなったな、京君」
「覚えてて・・・・・・くれたんだ」
 嬉しそうに笑った顔は、俺が見知っていた幼稚園の頃よりも大人びて、そしてお母さんによく似ていた。
「シャオロン、ここの先生なの?」
「ああ。二年の物理担当だ」
「そっか・・・・・・じゃあ、僕、二年になったら物理選択する」
「ああ、待ってるよ」
 くしゃりと撫でた髪の感じはやはり変わっていなくて。
「ねぇ、時々お話ししに行っていい?」
「そうだな。今年は担任を持ってないから、たいてい物理準備室にいるよ」
「分かった。じゃあ、またね、シャオロン」
「学校では”先生” だ」
「あ・・・・・・はい、香村先生」
 その耳にくすぐったい響きを、今も、よく覚えている。

 それは、たぶん、十年近くぶりの再会だった。
 シャオロンは高校の先生になって、一人暮らしを始めてしまったから僕の家の隣の実家にも滅多に帰ってこなくて、ずっとずっと会えなかったから。
「龍平君は今、甲栄高校にいるそうね」
 中学三年の春、お母さんからそう聞いて、僕は志望校を甲栄高校にした。
 県下で一番レベルが高いと言われる公立高校だったけど、どうしてもシャオロンに会いたくて僕は一生懸命勉強して、どうにか合格することができた。
 シャオロンに会える。
 ブレザーにネクタイを締めてどきどきしながら登校した入学式の朝。
 シャオロンは、校舎の近くの大きな桜の木の下に、立っていた。
 僕よりも十五歳年上の、小さな頃からの憧れのお兄ちゃん。
 香村先生って呼ぶのもちょっと気恥ずかしい。
 高校生になって忙しくなった勉強や友達付き合いの合間に、僕は放課後にはシャオロンのいる物理準備室に足を運んだ。
「あのね、シャオロン」
「ん?」
 それは、一年の終わりの後期の終業式の後のこと。
「僕ね、まだ・・・・・・子供の頃の夢のことを覚えてるよ」
「夢?」
「・・・・・・シャオロンのお嫁さんになる」
 呆気に取られたようなシャオロンの顔。
 けれど、その後すぐに、昔と同じ笑顔を浮かべた。
「そんなことを言ってたな、京君は」
「僕、今もシャオロンが好きだよ」
「・・・・・・それは、ありがとう」
 そう言ってくれたけど、本気にしてないっていう顔で。
「ほら、そろそろ下校時間だぞ」
「ねぇ、シャオロンっ」
 ぐっと白衣の袖を掴むと、シャオロンは困ったような顔で僕を見た。
「僕、シャオロンが好きだよ。本当に、・・・・・・本当に、好きだよ」
「京く・・・・・・」
 追いつけない身長に少し背伸びをして、僕はシャオロンにキスをした。
「僕、シャオロンが、好きだよ」
 繰り返した言葉を残して、僕は物理準備室を飛び出した。
 まだ春は浅くて。けれど、何処かから花の香りがした、三月の終わりのこと。

 幼い、恋愛感情だ。
 刷り込みと言ったほうがいいかもしれない。
 隣の家に住んでいた自分よりずっと年上のお兄ちゃん。年上への子供らしい憧れをそのまま、恋愛感情と勘違いしてしまっている。
 触れた唇と、こちらをたじろがせるほどの真剣な眼差し。
 だから、そう思い込もうとしていたのに。
「つまりこの法則はこの公式を当てはめることで求めることができる・・・・・・」
 二年に進級し、宣言どおり物理を選択した彼のクラスを担当する時間になるたび、視線にためらう。
 あの日と同じ眼差しを、彼は俺に向ける。
 子供の、とても真摯な、眼差しを。
 息苦しいほどの時間は、終業のチャイムとともに終わり挨拶を交わして教室を出る。
「香村先生っ」
 追いかけてきたのは、やはり、彼だった。
「何か質問かい、芳澤君?」
「・・・・・・また、準備室、行っていいですか?」
 あの日から春休みを挟み、この一ヶ月ほど、彼が準備室に来ることはなくなっていた。
「・・・・・・好きに、するといいよ」
 その答えは、大人の狡さだろうか?
 けれど、彼はとても嬉しそうに笑った。
 シャオロン。
 香村先生。
 その二つの、耳をくすぐる呼び方。
 子供らしいまっすぐさで彼は素直に俺への好意を口にし、態度に示す。
 時には触れることさえ、彼はもう躊躇おうとはしなかった。
 それを、拒もうとしないのはつまり、受け入れたのも同じということになるのだろうか。
「シャオロン」
 準備室の扉をそっと開けて、嬉しそうにそう呼ぶ彼の笑顔を、そしてそれに微笑み返してしまう自分を、あの頃、どうするべきなのか分からずにいた。

 シャオロンの香水の匂いも、好きなインスタントコーヒーの銘柄も、本当はネクタイをするのを煩わしがってるとか、時々、自分で作ったお弁当を食べてるとか。
 少しずつ、少しずつ、傍にいる時間が増えて知っていったこと。
 僕の大好きな人。
 誰もいない物理準備室。
 そっと、そぉっと抱きついても、シャオロンは決して拒まなかった。
 だから、僕は期待してしまう。
「・・・・・・僕、シャオロンのお嫁さんになりたい」
 幾度、その言葉を繰り返しただろうか。
 シャオロンはいつも曖昧な笑みを浮かべて、そして、「ありがとう」と言った。
「昔は違う言葉をくれたのに」
 そう言うと、シャオロンは少し困った顔をした。
「覚えて、ないの?」
「・・・・・・あの、絵を見せてくれた時に、かい?」
「そう、だよ?」
「・・・・・・すまない、覚えて、いないんだ」
 僕にとってのとても大切な言葉なのに。
「そっ、か・・・・・・」
「京君」
「・・・・・・いいよ、気にしてない。だけど・・・・・・いつか、思い出してね」
 くしゃりとシャオロンはいつものように僕の頭をなでてくれる。
 それが、僕には嬉しくて、そして、少し悲しくもあった。

 三年の担任を持つように言われて、渡された名簿に彼の名前を見つけた時、正直戸惑った。
 三年といえば、半ば定めた進路に向けて指導をしていくべき時期で面談の回数も増える。
「シャオロン、格好いい」
 新学年の前期が始まって一ヶ月目に巡ってきた彼の面談の順番。
 先に提出させた進路票を準備していると、彼はそう言って無邪気に笑った。
「今は面談の時間だ、芳澤」
「はぁい、香村先生」
「・・・・・・で、君の進路希望は・・・・・・教育系、か」
「はい。・・・・・・香村先生と同じ大学に行きたいんです」
「S大かい?・・・・・・あそこは単科大だから・・・・・・教師になる以外道はないといっても過言ではないぞ?」
「いいんです。僕、香村先生みたいな先生になるのが夢だから」
「・・・・・・俺よりもっと、手本にすべき先生はいると思うけどな」
「・・・・・・シャオロンは僕にとって、最高の先生だよ」
 子供の頃から俺に向けられる無邪気な愛情と尊敬の眼差し。
 若い頃でさえ受け止めかねたそれは、年をとるにつれて益々、俺を苦しくさせた。

「シャオロン」
 声に出して名前を呼んで、それだけで思わず口元に笑みが上る。
「本当に、ジンはシャオロンのことが好きね。まるで恋してる女の子みたいよ?」
 母さんはそう、からかうように言ったけれど。
 みたい、じゃなくて本当に、僕はシャオロンに恋をしている。
 幼稚園の頃描いたシャオロンと僕の絵は大切に部屋の壁に飾ってある。
 あの日、シャオロンが僕にくれた言葉。
 大切な大切な言葉。
 長い夏休みが苦しい。
 シャオロンに一月以上も会えない日々が続く。
 だけど。S大に入って、シャオロンみたいな先生になりたいから。
 この夏を、頑張らなければならない。
「図書館に行ってくるね」
「行ってらっしゃい、気をつけて」
 そうして、僕はいつものように図書館へと向かう。
 偶然、シャオロンに会ったりしないかな、と期待しながら。

 年をとると一年が早く過ぎる。
 そんな言葉を冗談だろう?と笑っていられた時期は、もうずいぶん前に過ぎていた。
 学生時代でさえあっという間だった一年は、教師という職業を選んで以降、益々速さを増しているように感じる。
 センター試験の日程を終えた翌日の答え合わせと国公立出願の為の面談。
 早々に上がってくる私立の発表に生徒とともに一喜一憂し、励ます日々。
 その間にも確実に、別れの日は近づいていた。


 三月一日は、前日までの肌寒さが嘘のように春めいた暖かさに満ちていた。
 普段よりも一時間早く学校に行き、まだ誰もいない教室に入る。
 今日で、この教室にいる生徒たちを送り出し、そして、俺自身もこの学校を離れる挨拶をする。
 在校生が書いた卒業おめでとうの文字。
 それを背にして教壇に立ち、今日話そうと前日に考えたあれこれを反芻する。
 そうしながら、視線は彼の席のあたりにさまよっていた。
 無邪気なあの笑顔。くすぐったい呼び方。真摯なあの眼差し。
 俺の記憶の中で五歳だった少年が、突然、十五歳の姿で現れ、そして十八歳になった。
「・・・・・・京君・・・・・・」
 その名前を今、口にする資格が俺にあるのだろうか?

「ただいまより、第四十八回甲栄高校卒業証書授与式を挙行いたします」
 遠く、体育館からマイクを通した教頭の声がもれ聞こえた。
 暖かな拍手の音。
 A組から順番に、体育館へと紺色の制服の列が吸い込まれていく。
 E組まで全員が席に着いて、静まり返る式場に校歌が響く。
「卒業証書、授与」
 皆が静かに緊張するのが分かる。
「・・・・・・C組。相川裕也」
 シャオロンの声。
 静かで心地のいい声が、一人ずつの名前を呼んでいく。
「・・・・・・芳澤、京」
 僕の名前を、呼んでくれた。
「渡辺和仁。・・・・・・以上、三十九名。代表、相川裕也」
 つまらない来賓の挨拶、蛍の光、仰げば尊し。
 シャオロンは他のクラスの担任たちと一緒に、すっと背筋を伸ばしてパイプ椅子に座っていた。
「以上をもちまして、第四十八回甲栄高校卒業証書授与式を終了いたします。引き続いて、本年度を以って退職、転任される先生方の離任式を行います」
 教頭から、教務主任の先生に司会が代わる。
「今年度を以って退職、転任される先生は三人、いらっしゃいます。まず、香村龍平先生。香村先生は、甲栄高校から県立八尾路高校へ転任されます」
 思わずシャオロンの方を見た。
 絡むことは決してない視線に、胸が苦しくなる。
「それでは、離任される先生方から一言、ご挨拶を頂戴いたします。では、香村先生から、よろしくお願いいたします」
 シャオロンは静かに立ち上がり、校長と教頭に向かって一礼するとゆっくりと壇上に上がった。
「ただいま、お話いただいたとおり、今年度を以って皆さんと一緒にこの学校を去ることになりました。この学校に来て四年、教師になって十年になりますが、......教師にとって最も嬉しいことと、最も、悲しいことを私はこの学校で経験しました」
 ・・・・・・シャオロン。
「最も嬉しいことは、もちろん、皆さんと無事に卒業式を迎えることができた、ということです。そして、・・・・・・最も悲しいことは、教え子を、失う、ということです。・・・・・・芳澤、京。・・・・・・彼が、不幸な事故の為にこの場にいないということが、私にとって、最も、悲しく、そして、つらいことです」
 ほんの少しだけ、シャオロンは目を閉じた。
「皆さん、どうか、彼のことを忘れないでもらいたい。これから、皆さんの前にはさまざまな道があり、そして大きな空が開け、大地が拓かれていることでしょう。だからこそ、その途上で道を絶たれた彼のことを、忘れないでもらいたい。彼の分まで強く、生きてもらいたい。・・・・・・これが、私からの皆さんへのお願いです。自分に誇りを持って、未来へと羽ばたいてください」
 ゆっくりと開かれた目は、まっすぐに僕を見ていた。
「・・・・・・京君。俺は、君に贈った言葉をちゃんと思い出した。・・・・・・君が、好きだよ」
 視線が絡む。
 シャオロンは、ちゃんと、僕を見てくれている。
『シャオロン・・・・・・ありがとう』
 ざわつく会場を気にする風もなく、シャオロンは堂々とした態度で一礼して壇上から降りた。

 陽炎の立つような暑い日。
 その日に限って、俺が、教務室の電話を取った。
『っ、ぁ、あ、龍平君、か・・・・・・』
 懐かしい声は、彼の父親のものだ。
「どうもご無沙汰しております」
 間の抜けた挨拶。
「どのようなご用件でしょうか?」
 家で電話を取ったような気安さ。けれど、そこは高校の教務室の電話だ。
『京、が・・・・・・』
「・・・・・・芳澤君に、何かあったんですか?」
『京が、・・・・・・事故、で・・・・・・』
 それは、茹だるような暑さの日で。
 帰ったら冷えたビールを一杯だな、とか。そんな話を教務室でしていたような、そんな日で。
 ・・・・・・苦しまなかったことを、せめてもの救いと思うべきなのだろうか。
 校長への連絡、クラスメイトの連絡網に回し、葬儀の日取りを伝えた。
 そうして、喪服に着替える為に実家に行き、誰よりも早く辿り着いた彼の家。
 戻ったばかりの彼は、とても静かな顔で横たわっていた。

 休みが明けて、その席が空席であることに目を背けたくて仕様がなかった。
 女性副担任が飾ってくれた花瓶の花。
 永久に、その席が空席であると誇張していて、俺には目障りだった。
 生徒たちは、変わらない日常を取り戻している。
 受験に向けて模試の受験を繰り返す生徒たちの為に授業を行いながら、いつも俺に向けられていたあの真摯な眼差しを求めて、そこへと視線は吸い寄せられては無理に引き剥がしていた。
 放課後、一人で過ごす時間はひどく味気ないと感じた。
 今にもその扉を開けて、あのくすぐったい呼び方とともに彼が顔を出すのではないかと、そんな気がして視界の端に常にその扉を収めていた。
『・・・・・・僕、シャオロンのお嫁さんになりたい』
 何度も何度も彼が繰り返した言葉。
 その言葉に、最初に返した言葉を覚えていないと言った時の、あの悲しそうな顔。


『そうだな。十年経って・・・・・・京君がまだ俺のことを好きでいてくれて、俺がまだ結婚をしていなかったら。京君にお嫁に来てもらおうかな』


 ・・・・・・ようやく、思い出した。


春の日にあの人にもらった言葉。

冬の日に彼からもらった想い。

『ありがとう、世界で一番大好きな人』

「ありがとう、俺を大切に想ってくれて」

この思いは、ちゃんと届くだろうか?

『大好きなあなただから』

「大切な君だから」

だからこそ、伝えよう。


ありがとう、・・・・・・さようなら。また、会う時まで








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