閉ざされた世界





 九月も半ばに入ると、朝晩の冷え込みが少しずつ感じられるようになる。制服も夏服から冬服へと替わり、一気に明るさは吹き飛んでしまった。

 おまけに高校三年生ともなれば、受験がいやでも付きまとう。形ばかりとはいえ内部進学でもテストはあるし、中には外部受験をする生徒もいる。

 之路も数少ない外部受験を選択した一人だ。そのおかげで、之路のbromistaへの出入りは週に二度までと決められてしまった。不平を言っても当然聞いてもらえず、受験が終わるまでなのだからと大人しくその約束を守っている。

 その貴重な一日は、すでに定位置となりつつあるカウンター席で尚貴と蒼と談笑する。そこに天野が加われば、之路にとって言うことはない。

 

 

 

 本日二杯目のグラスを受け取った之路は、思い出したように尚貴の左手を持ち上げた。手首に絡みついた腕時計に視線を走らせれば、時計の針はすでに二十一時を過ぎている。

「……遅い」

 いつもならこの時刻には姿を見せるはずなのだが、今日はその気配がない。

 之路が週に二度までと決められてからというもの、天野は予定を合わせて顔を出すことが多くなった。来れないときは蒼からその旨を伝え聞くのが常で、何も言われていないのだから、天野は来る意思があるということだろう。

「おまえ……時計確認なら素直に聞けよ」

「今話しかけたら二人の邪魔することになるじゃん。尚貴さんが腕時計してることは確かだし、見せてもらえばいいかと思って」

「……何言ってやがる、この馬鹿が」

 呆れ顔で小突かれ、之路は頬を膨らませる。

「馬鹿ってなんだよ」

「意味を知らないなら辞書を引いてこい。ああ、ちゃんと紙の辞書でな」

 電子辞書じゃ頭の中に入らないだろ。

 そう嘯いた尚貴が新しい煙草を咥える。ライターで火をつけるその仕草に一瞬見惚れかけた之路は、今自分が何をしようとしていたのか思い出した。

「尚貴さん、あのね―――」

「ユキ、待ち人が来たよ」

 口から飛び出す準備万全だった文句は、即時に喉の奥へ消えてしまった。

 ぱっと背後に顔を向ければ近づいてくる見慣れた姿がある。一人で来るところを見ると、どうやら係りの案内を断ったらしい。

「悪いな、遅くなって」

「別に……」

 天野の仕事が忙しいのはいつものことで、それをどうこう言うつもりはない。

 ただ、彼に会えないのかと思った瞬間に寂しく感じただけだ。

 そっぽを向く之路の髪を一撫でしてから、天野は之路の隣へ腰を下ろした。手際よく蒼がおしぼりを渡す。

「ビールでいいですか?」

「ああ」

 天野の返事に頷き、蒼がカウンター内を移動する。それを視線で追っていると、天野の指が頤を捉えた。

「……何?」

「顔色が良くない。寝不足か?」

 前置きもなく指摘され、之路は一瞬だけ視線を泳がせた。

 確かに最近は眠りが浅い。目が覚めたついでにと参考書を開くが、睡眠不足の頭は知識を吸収する力を持たない。結局睡眠にも勉強にも向かない時間を無為に過ごす日々が増えつつある。

 原因はわかっている。他大受験を決意したことに対する不安だ。

 他の生徒とは違い、之路はこの夏に内部進学から他大受験へと切り替えた。他人よりも準備が遅く、スタートラインが遠い。予め覚悟しておいたことが現実となって突きつけられた。

 不安なんだ、と正直に言えば天野たちが慰めてくれるだろう。それが予想できるからこそ、之路は口を閉ざす。

 これは誰かに打ち明ける話ではなく、自分だけで乗り越えるものなのだ。

 一度目蓋を閉ざした之路は、天野を見つめながら小首を傾げてみせる。

「そう? 照明のせいじゃないかな」

 大丈夫だよ。そう言下に匂わせて視線を合わせれば、天野が小さな嘆息をした。了解というように、頤を捉えていた指が之路の髪をさらう。

「お待たせいたしました」

 戻ってきた蒼が天野の前にグラスビールを置いた。それと共に注文をしていない小皿料理が並ぶ。

 食事がメインでない限り、天野は基本的に酒と共に食事を取らない。それを知っている蒼は独自の判断でつまみになりやすいものを選択することが多かった。

「少しでいいから食べてよ」

「わかっているよ」

 苦笑で返した天野は、思い出したように上着の胸ポケットへ手を伸ばした。取り出したのはありふれた事務封筒で、中身に合わせて余った部分が折られている。

「忘れるところだった。蒼、ご所望のものだ」

「ありがとう、楽しみにしてたんだ」

 上機嫌で礼を言った蒼は開封して中身を確認した。どうやら数枚の写真が入っていたようだ。時折頷くような仕草をしては目を細めて見入っている。

 待ち遠しいような言い方をしていたし、よほどのものが写っているのだろうか。

「天野さん、何の写真?」

 隣りに座る天野に聞けば、天野は言葉を濁して明確な返事をよこさない。尚貴はというと、それが何かわかっているようで之路の問う視線に意味ありげな笑みを浮かべるだけだ。

 訝る之路に気づいた蒼が、之路へとにっこり笑いかけた。

「知りたい?」

 どこか得意げな表情に、之路の脳裏で危険信号が点滅し始める。蒼がこういう表情をするときは、何かしら裏があると付き合いの中で学んでいた。

「や、ええと……」

「気になるなら仕方ないね、見せてあげよう」

 遠慮したい、という之路の言葉は蒼の声に消された。楽しげな様子の蒼に写真を見せられた之路は、これ以上ないくらい目を大きく見開くことになる。

「―――――――っ!」

 声を殺したというよりも、声が出なかったというべきだろう。

「ああ、例の写真か」

 どれどれ、と尚貴が受け取った写真には、浴衣姿の之路がいた。

 先日の夏祭りで天野に着付けてもらったときのものだろう。見慣れない姿に鏡の中の自分と睨めっこしている場面である。確かにあの時不意討ちで撮られていた記憶はあるが、こんなところまで撮られていたとは思わなかった。

「さすが義孝さんだよね。ユキに映える色を持ってきてる」

「ああ、馬子にも衣装だな」

「尚貴さん、それ誉めてないよ」

「あ―――……天野さんっ!!

 撮った張本人に矛先を向ければ、知らん顔でビールを口にしていた。

「な、なんで、あれ……っ」

「見たいと言われたからな」

「だからって……っ」

 どうして撮られた本人が知らない写真を見せたりするのか。今にも爆発しそうな之路の背を天野の掌が宥めるように叩いた。

「こいつらを相手に、そんなに恥ずかしがることはないだろう?」

「………」

「そうそう、僕としては実物を見られない分悔しいんだよ。義孝さんに連れて来てって言っといたのに結局来なかったし」

「……そうなの?」

「独り占めしたかったんだよな、天野」

「うるさい」

 余計なことを言うな、と天野が視線で釘を刺す。どことなく罰が悪そうなのは気のせいだろうか。

「あの時は金魚がいたから、どうせ寄り道はできなかっただろう」

「うん、そうだね」

 屋台で天野に捕ってもらった出目金は、次の日買い揃えた金魚鉢の中で生息している。赤と黒の二匹がひらひらと泳ぐ姿を見るのは、今では之路の息抜きのひとつだ。

 切り取られたようにゆったり流れる空間を見ては、仲間になりたいと時折思うことがある。彼らのようにのんびり泳いでいられたらどんなに気持ちがいいだろう。

 そして、蒼も尚貴も、そして天野もいない世界で自分は生きられるのだろうかとも考える。

「ユキ、他にも何か買ってもらった?」

 柔らかな声音につられて、之路もまた唇に笑みを浮かべる。

「りんご飴だっけ? 買ってもらったんだけど、あまり美味しくなかったよ」

「小さいのにしておけばいいのに、一番でかいのを選ぶからだ」

「俺だったら違う種類を選ぶけれどな」

「え? 尚貴さんも知ってるの!? だったら買う前に言ってよ!」

「人生、何事も経験だ。よかったな、之路」

「よくない……」

 自分だけが知らなかった事実に、之路は恨みがましい目を向ける。

 之路と異なり屋台の醍醐味を知る大人たちは、之路の視線に笑い声を上げる。りんご飴以外の話題へと移ったときには、之路も興味を惹かれて会話に加わる。

 自分たちだけで完結できる水の中の世界に憧れがないとは言わない。以前の之路なら、きっと迷わず選んでいたことだろう。

 だが、何度考えても答えは、否だ。

 自分を構ってくれる人がいる。

 之路を之路のまま受け止めてくれる人がいる。

 自分だけの世界に閉じこもりたいとは、もう思わないから。

 視線を感じ、之路は顔を上げる。自分だけを見つめてくる瞳に、之路は花が綻ぶような笑みを浮かべた。





 久々の更新です…。
 もう少し馬鹿っぽい話にしようと思ったのですが、どうも旨くいきませんでした。「陽」は之路の成長話だし、しょうがないかな〜と最近思いつつあります。コメディは他の話でがんばれってことですね(笑)。
 この話はADABANA様に捧げた「夏の誓い」の続編(もとい補足編)です。まだ読んでない方はADABANA様宅へGO!




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