穏やかな時間




 梅雨の中休みと呼ばれる日の午後。

 天野宅では、床に座った之路がローテーブルと向かい合っていた。

 目の前に置かれているのは第二外国語のドイツ語の教科書と独和辞典。ノートには授業で聞いた要点が書いてあるはずなのに、今の之路には役立たない語彙ばかりだ。

「ここが主語で……これは前置詞?」

 ソファに座るとテーブルとの高さが合わないため、之路はここで教科書を広げるときは床に直接座る。

 行儀悪く立てた膝の上に肘を突き、その手の甲に顎を乗せたその表情は渋い。

「……訳せない」

 先ほどから似た言葉を呟いては、辞書で単語を調べて首を傾けることを繰り返していた。

 英語に比べれば構文は単純なはずなのに、動詞の変化や前置詞の多さに惑わされるのが敗因だとわかっている。

 おかげで授業が終わるごとに呟く之路を、大学の友人が笑みと共にからかうのも恒例になって久しい。

 彼ら付属高校からの持上がり組は、第二外国語の授業をすでに履修していたというのだ。之路がずるいと唸っても仕方のないことだろう。

 わからないなりに単語の意味を調べ、それを箇条書きにしてから文章を組み立てる。効率が悪いのは判っているが、遅々として進まない。

 教科書を広げてすでに一時間は経過しているのに、未だ課題の半分も終わらない。

 終わったら出かけようと天野に言われたが、いつになるのかも見当がつかない状況になってきた。

「だめだ、気分転換しよう」

 はーっと盛大な溜め息がこぼれた。ずっと握っていたシャープペンシルを、投げやりにノートの上に落とす。

「天野さん、コーヒーいる?」

 立ち上がりながら背後のソファを振り返った之路は、そのままの姿勢で動きを止める。

 之路が課題と格闘している間、天野はソファで経済誌を読んでいたはずだった。それが午後の穏やかな空気に促されたのか、静かな寝息を立てている。

 驚きに固まった之路だが、物音を立てないよう静かに膝をついた。軋ませないよう慎重にソファに肘をついて天野を見上げる。

「……初めて見た」

 昼寝姿以前に天野の寝顔を。

 天野と出会ってもうすぐ三度目の夏が来る。数え切れないほど彼とベッドを共にしてきたというのに、之路は彼の寝ている姿を見たことがない。

 仕事のせいなのか元々の癖なのかはわからないが、天野は常に周囲にアンテナを張り巡らせている。物音に敏く、廊下を歩く音で誰なのかも判別できるとも聞いたことがある。

 天野をよく知る人物に言わせると、「いつでも気を張り続けなければいけない環境にあった結果」らしい。

 当然朝目覚めるときに之路が身動ぎをすれば、天野も目を覚ましてしまう。

 おまけに眠りから覚めるのも早いようで、寝惚けた姿というのも記憶にない。

 それに、こんなにじっくりと彼の顔を見たのは初めてじゃないだろうか。

 時折鋭く光る眼差しも、今は目蓋に閉ざされている。精悍な顔つきだとは思っていたけれど、印象以上に輪郭が柔らかい。

 鼻梁のラインが綺麗だとか、睫が思ったより長いとか、小さな発見がいくつも見つかる。

 こうやってゆっくりと見つめたことがなかったから、知らなかった。

「………なんか、可愛い」

 零れた言葉に、之路は小さく笑う。

 天野はいつも之路より先に起き、時間があれば之路の寝顔を見ているという。聞いたときは何で変なところを、と思ったものだ。

 でも、今は天野の気持ちが少しだけわかる気がする。

 眠るということは、一番無防備な時間だ。

 極端な話、ここに敵対する人間がいて、強い眠気が襲ってきたとする。果たして自分はその人物の前で眠れるだろうか。

 答えは、否だ。

 どんなに目蓋が重くなろうと、呼吸を浅くして警戒態勢を取り続けるだろう。安眠には一番遠い状況なのだから。

 それに、と思う。

 之路は闇に怯えた時期がある。

 そして、人に怯えた。

 誰かの隣にいる自分を想像できるようになるなんて、想像すらできずただ淡々と過ごした日々。

 奇跡的に出会った蒼と尚貴に助けられ、天野に癒されたからこそ、今こうして笑っていられるのだ。

 彼のことを好きになってよかったと心から思う。

 自分が天野の傍で眠れるように、いつか自分も天野にとってそんな存在になりたい。

 そして、今の彼のように自分も穏やかな表情で彼の隣りに居たい。

「……………どうしよう」

 突然、キスしたいと思ってしまった。

 一度意識してしまえば天野の唇がやけに視界に映る。

 自分からしたことがないわけじゃない。でも、こんな状況で思ったことは初めてだ。

 もっとも天野が寝ている状況自体がなかったわけだけれども。

 起こしてしまうだろうか。

 迷いに迷った末、之路はゆっくりと上半身を近づける。ソファについた手が震えているのは、力が加わったせいだけではないはずだ。

 そっと瞳を伏せた瞬間、之路の二の腕が掴まれた。驚きの声を上げる間もなく口が塞がれる。

!?

 瞠目する之路と笑う天野の視線が絡まった。次いで入ってきた熱いものに口腔をぐるりと一周り弄られると、身体が震えだすのがわかる。

 ダメ押しのように軽く重なってきた唇を甘受すると、之路は呆然と離れていくそれを見送った。

 自分の行動はいつから気づかれていたのだろう。

「……いつから?」

「うん?」

「いつから、起きてたの」

「ついさっき」

「だから……っ」

 上目遣いに睨めつけると、天野は肩を竦めてみせた。

「あれだけ視線を感じたら起きる」

「そ……そんなに見てないよ!!

「そうか? 人の顔を観察していただろう?」

「あれは―――って、そこから起きてたの!?

「起こされたんだよ」

「同じ意味! 屁理屈をこねない!」

 むっとして叱るが、天野はただ笑うだけだ。

「天野さん!」

「わかった、悪かったよ」

 だから機嫌を直せ。

 眉間に宥めるようなキスを受け、之路は唇を尖らせる。

「そうやって子ども扱いするし……」

「なんだ、大人扱いがいいのか?」

 含みを持たせた言い方に気づかないはずがない。

 正面から視線を合わせていた之路は無言でそっぽを向いた。きっと耳まで赤くなっているだろう。

「之路?」

 笑みを隠さない声に呼ばれ、之路は視線を合わせないまま天野の首筋に顔を埋めた。

 からかわれてばかりで悔しいから、今は頷くのをやめておこうと決意する。

 居心地がいいようにもぞもぞと動けば、背中に回された腕がそれを助けた。ありがとうというのも変だから、代わりに体重をかけて甘えてみせる。

 そのまま瞳を伏せてしまえば、いつの間に忍び寄っていた睡魔に襲われた。

 とろとろしてくる意識を天野の心音が助長する。

 ずっと、このままでいられたらいいのに。

「……之路?」

 柔らかい声で呼ばれた気もするが、目蓋は重石がついたように動かない。

 暖かい温もりを全身で感じながら、之路は意識をそっと手放した。





19万キリリク:桜さま
お題:天野×之路の超甘々

 ……超甘々? と疑ってください。書きながら自問自答を繰り返してしまったので、言い訳もできません(涙)。
 誰か私に甘々な書き方を教えてください(切実)。



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